3月の言葉「五蘊盛苦」



四苦八苦 その九 完


ー人生を苦しくさせる八つの原因ー



三話 八 苦


五、五蘊盛苦(五陰盛苦)

ー肉体的生存そのものの苦しみー


五蘊「蘊」は、

蘊蓄(うんちく)というように、積み重なる。


寄り集まってできている という意味です。

 

仏法では蘊を積集しゃくじゅうといっています。

 

つまり五つの蘊が合成して

一個の人間となるということです。

 

その五つとは、

 

(しき)蘊・(じゅ)蘊・(そう)蘊・(ぎょう)蘊・(しき)

五つの要素のことをいいます。

 

私たち人間は、

五つのものの合成体に過ぎぬ、ということであります。

 

すなわち 因縁に依って 

この五つが集まり私たちが、

 

今、ここ、に生かされて生きて存在しているのです。

 

故に、因縁の尽きる事に依って、

この五つが離散する時、

 

私たちはすでに存在しない。

 

すなわち 私たち個体というものは消滅します。

 

私たちは 無常の存在であり、

 

無我であるという 仏法の結論が、

 

 この五蘊によって

 導きだされるのであります。



   因縁(いんねん)=結果を引き起こす。

直接の内的原因であると、

それを外から助ける間接的原因である

 

仏法では、

すべての生滅は この二つの力によると説きます。

 

   無常(むじょう)=一切の万物が生滅変転して常住しないこと。

現世におけるすべてのものが速やかに移り変わって、

暫時(ざんじ)も同じ状態に止まらないこと。

特に生命のはかないことをいいます。

 

   無我(むが)=不変の実体である は存在しないこと。

 

霊魂は 存在しないことをいいます。


五蘊—―色受想行識


「色」とは、

認識の対象となる物質的存在のことです。

 

すなわち、

自分の目・耳・鼻・舌・皮膚の五官の対象となる すべての物のことです。

 

広くいえば 宇宙間に存在する物質 を 意味しますが、 

 

ここでは 直接私たちの肉体を指します。


これは、古代インドの物理、化学的学説である

 

「四大」(地・水・火・風)説を取り入れたものです。

 

  四大(しだい)= 一切の物質を構成する 地・水・火・風 の 四つの元素のこと。
          
とは 元素のことです。

 

➀ 堅さを本質として 保持する作用 をもつ地大

 

② 湿性をおさめ集める作用 をもつ水大

 

③ 熱さを本質として 成熟させる作用 のある火大

 

④ 動物を成長させる作用 のある風大

 

  —――この四大、すなわち地・水・火・風の四つの元素が和合することによって、

  一個の生命ある肉体を構成しているのですから、

  和合の因縁が尽きれば、また四つに還元して離散します。

 

 


「色」は 変壊質碍(へんねぜつげ)という性質を有していますが、 

 

変壊は、変化して壊れること。 

 

質碍は、物体がある場所を占有して 他がその場所を入ることを妨げること。

 

同時に二つの物質が 同一の場所を占有しえないことをいいます。

 

つまり、

一定の空間を占めていて 絶えず変化しやがて消滅するという性質を持っています。

 

具体的に言えば 一切の事々物々です。

 

私たちの肉体 であります。 

 



受想行識


受想行識―――色 が 物質界であるのに対応して、

 

私たちの精神方面を受・想・行・識」の四つに含めます。

 

 これは矢張り古代インドの心理学が

 

個人心理を

分析内観(自己そのものを見つめる修行)して得ていた所のものを取り入れたもので、

 

受・想・行は付属的な心の働きであり、

 

心王 といって、

 

それらを統一している中心的なものを指します。

 

 


 

 

  感受作用のことです。

  五官によって外界と接触して

「快」「不快」「そのいずれとも言えないもの」を感じとる働きです。

 

  表象作用のことです。

 感受したものを 心の中に思い浮かべる働きです。

 

  意志作用のことです。

「善」「悪」「そのいずれでもない」意志を 心の中に起こす働きです。

 

  識別・認識作用のことです。

五官で感じとったことを分析・分類して、

「これは桜だ」「彼は背が高い」などと認識する働きです。

 

―――すなわち受・想・行・識の五つに

私たち個人の全存在が含まれているのです。

 

私たちは

縁あって五つのものの 仮に和合した合成体に過ぎません。

 

それ以外の何物でもない。

 

何れ一つ取って見ても、

 

これが自分のものである といえるものは無いし、

 

しかも、この寄せ集めのもの以外に

 

本来の自分 というものがあるわけでもない。

 

私たちには

 

実体は無い我は無いのです。

 



  原始仏典『阿含(あごん)(きょう)』に

 

「法は縁に依って生じ、また縁に依って滅す。

 

一切の諸法は空にして主ある事なし。」

 

という言葉があります。

 

ここにいう「法」は取りあえず、

私たち個人と解してください。

 

「主ある事なし」は、

 

実体的なものは無い、我は無い という意味であります。

 

 

これが 五蘊説法 真の目的であり、真の意義ですが、

 

ここでは 五蘊 すなわち 身心と受け取っておけば、まず間違いありません。

 

 

そして 五蘊の作用 の勢いが

高まり盛んなるがゆえに生じる「苦」

 

「五蘊盛苦」といいます。

 

この苦は「生老病死」、「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」

 

七苦の根源 であります。

 


人は 重き荷物 を担うもの


苦行の釈尊像


 原始仏典『阿含経』の相応部経典の蘊相応」の中に

「重担」(重い荷物)という教えがあります。

 

これは釈尊が 弟子たちに対して説かれたものです。

 

約言して紹介します。

 

重い荷物とは何か。

 

それは人間を構成する五つの要素(五蘊=色受想行識)であって、

 

この重い荷物を担っているもの、

 

それが人である。

 

 

 

重い荷物を担うとは、どういうことか。

 

 


 

それは、

心に喜び、身を燃やし、あれやこれやに、わっとばかりに殺到する渇愛

(のどが渇いて水を欲しがるような激しい執着)が それである。

 

それがさらに 迷いの生 をものたらすのである。

 

すなわち

性欲のたかまり生存欲のたかまり、自己優越(人間の名誉欲など)のたかまりである。

 

これが重い荷物を担うということである。

 

 

可愛い五蘊、すなわち身心は、

 

所詮荷物にすぎない。

 

何処かで降ろさないと、

 

この身がもたなくなる。

 

五蘊に対する渇愛がなくなるためには、

 

五蘊を

 

自分のものだ とする考えを断つことである。

 

それが 五蘊の荷物 を 降ろすことになる。

 

私たちは五蘊の荷物を

何処かで 早く降ろし、

身心とも安らぐ必要があります。


(愚 歌)

八十(やそ)路越(じこ)え 娑婆(しゃば)のかざりも 見栄(みえ)()

 

(こころ)はかるく ()(すこ)やかなり 

 


人とは 自分とは


―――自分の肉体に対して、

欲、貪り、愛しさを抱き、

 

これに執着し、

これにまつわりつくものが 人であります。

 

また、受・想・行・識などにも

欲、貪り、愛しさを抱き、執着し、

これにまつわりつくものが 人であります。 


  釈尊は、

 

たとえば、子供が土で家を造り、それを用いて遊びたわむれるようなもので、

 

その遊んでいる間は無我夢中で、貪りや欲に執着して、それを大事にしているが、

 

遊ぶのをやめるときは、

 

その家をメチャメチャに破壊し、捨て去るではないか」

 

 

といっておられます。


人は、

本来 すぐに壊れてしまい、

 

執拗(しつよう)にとらわれるほどには

 

価値のないもの であるにも拘わらず、

 

夢中になって、

貪り、欲望をかきたてています。

 

 これが人の姿であり 自分の姿であります。

 

 


もの に 執着しない


ー――仏道修行は基本的に

もの執着しないことを実践することです。

 

ものに執着しないという、

そのものとは一体、どんなものをいうのか。

 

先に述べたように、

五蘊や、身体の一切の感覚器官、

 

また自分をとりまく、

一切の感覚的な対象 などを指します。

 

では、これらのものに執着しないことだけでよいのか。

 

実は、仏道修行は

そこで終わるものではないのです。

 



禅の師匠から

「さとり に対しても 執着をしてはならない」といわれました。

 

その真意は、

釈尊

 

「自分の説いた教えさえも 執着してはならない」

 

という教えにあります。

 

どういうことかというと、

 

説法された教えを理解したら、

 

その意味を 充分に 自分のものにし、

 

教えの形骸は 捨て去れ ということです。

 


両極端 に 走らない


ー――ものに執着する という 心の働き は、

 

善きにつけ 悪しきにつけ

執着しているということです。

 

 

仏法では、元来、

 

欲を捨て去れ という考えはありません。

 

ものに妄執して

欲に振り回されてはならない と教えています。

 

つまり極端な行い

人を破滅に導くからです。

 

何事も 度が過ぎないように、

控えることの大切さ を教えています。

 

 


 

  仏道修行は バランス感覚を習得する生き方 です。

 

何事も 善きにつけ 悪しきにつけ

 

両極端に走ると バランスが崩れるので乱れます。

 

 

飲みすぎ、食べ過ぎ、働き過ぎ、求め過ぎなど、挙げると限りなくあります。

 

それほど人は 偏った生き方をしているのです。

 

「起き上がり小法師」が 倒れそうになっても、

必ず もとの姿勢にもどるように、

 

仏道を歩む人は、

 

常にバランスが取れた生き方 ができるように努力しています。

 


四苦八苦


―――「生・老・病・死」の四苦は、

この身の現実であり、

 

「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」は、

この人生を生きる上での 四苦 であります。

 

 

この四苦八苦には、

 

人生のすべての苦しみ

凝縮されています。

 

 

  そして、この四苦八苦は、

 

    今を生きる私たちにとって

    切実な問題なのです。

 

  この苦しみに満ちている人生において、

 

この「苦」の根源

深い思いを致すならば、

 

かけがえのない、

この現世の生き方

私たちは見出すことができるでしょう。

 


『四苦八苦』―――

 

   「今月の言葉」は 今回をもって終了します。

ありがとうございました。

自然宗佛國寺 開山  愚谷軒 黙雷


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円