2月の言葉「求不得苦」


四苦八苦 その八 長期連載

――人生を苦しくさせる八つの原因—―




四、求不得苦—―求めるものが得られない苦しみ


釈尊は、

人生なにかにつけて 思うようにならない悩みついて、

不得ふとく五蘊ごうんじょう(五おん盛苦)の 

 

二つの事柄によって説かれています。

 

 

まず、求不得苦」とは、

求めても、求めても満たされない苦しみ。

 

何かが欲しくても

自分の思ったように

手に入れることができない苦しみです。

 

この苦しみの一番の問題は、

私たちの欲求(よっきゅう)には限りがないということです。

 

足ることを知らない欲求は、

永遠に満たされることはありません。

 

足ることを知ることがなければ、

 

人間は一生、

     飢餓で満たされることのない

 

  不足、不平、不満を抱えて
  生きるしかありません。


多欲 は 苦なり


所有欲


—― 財、

すなわち生活や事業のもとでとなる財産。

 

人はこれによって 自分を養います。

 

故に 人には所有の本能があり、

他の物を得て
自分の用に立てようとします。

 

これは 一種の自己拡張で、

人はこれがあるがゆえに 進歩発展します。

 

また、これがあるがゆえに
迷い悩み苦しみます。

 

では、どうしたらよいのか。



苦の原因 は 欲望の集まりにあり


人は、

人生のさまざまな出来事の結果 
 目をやることはよくしますが、

 

かっての私は、

その原因
  直視する
勇気 と

冷静な態度を
 もつことに欠けていました。

 

そして、

苦しみ や 悩み事が起こると、

その苦しみや悩みの
  結果のみ にあくせくして、

 

苦の原因

真正面から直視せず、

 

原因から目をそらし、

 

外に向って

なんらかの理屈をつけて

自分を誤魔化してきました。

   

  ですから

  問題の解決にならず

 

  痛い思いを

  度々してきました。


「苦」の原因を

外に求めるのでなく、

 

「内」に向って求めよ

 

と 頭ではわかっていても、

 

 何か、イヤなことがあったり、苦しみや悩み事が起こったら、

 

  時代が悪い、

 

  社会が悪い、

 

  環境が悪い、

 

  誰々が悪いなどと

 

  他のせいにしてきました。

 

  そのような私が、

 

  責任を 外のものになすりつける のではなく、

 

  どこまでも、自分自身の責任として、

 

  受けとめてゆくようになるまでには、

  かなりの年月がかかりました。

 


 自分の自我中心の欲望

 

すなわち、

貪欲の拡充には 限りがありません。

 

  際限のないものを

  そのままのばしてゆくと、

  これでよし

  ということがなくなります。

 

 多欲、

  つまり 欲が多発すると

  苦しみ悩みを産みます。

 

 「苦」とは、

 

  何処からか、やってきたもの でもなければ、

 

 地面をやぶって湧いてきたもの でもありません。

 

 

 それは自分自身の行為であるということです。

 

 

 ですから

 「苦」は何処かにあるものでもなく、

  押しつけられたものでありません。

 

 それは私の行為によって

  つくられてものであります。

 

 

  その責任は

    行為の主体である自分自身 にあります。


欲望には 窮まりがないー――


原始仏典『阿含(あごん)(きょう)』の相応部経典の「悪魔相応」と題する経の中に、

   

人間の欲望には窮まりのない

 

ことを述べた一節があります。

 

   意訳して紹介します。



 釈尊
雪山(ヒマラヤ)地方の森の小屋に住し、独り坐し、静かに思索のなかにあった。

 

   その時、悪しき魔羅(欲界を支配する魔王、転じて煩悩)が


素晴らしい説法も ありがたいですが、

あのヒマラヤの山を 金に変えて下さったら

人々はもっと喜ぶと思いますが、いかがなものでしょうかと尋ねました。

 

それを聞いて釈尊

人々を喜ばそうと思えば、ヒマラヤ全山を金に変えただけでは足りないだろう

と答えられました。

 

人間の欲望は、

ヒマラヤ全山を金に変えても 満たせないといわれたのです。

 

一つ満たされれば、

次には隣の山も、

こちらの山も金に変えて欲しいと訴え、

 

もしそれらが すべて金に変わったら、

 

その金の奪い合いで「いのち」のとり合いをするだろうと、

 

人間の浅ましい姿が、

釈尊には見えていたのでしょう。

 

思う事 一つ叶えば また二つ

 

三つ四つ五つ 六つかしの世や

 


欲をおさえて 己に打ち勝つ―――


釈尊「欲」は 

本来悪ではないと説かれでいます。

 

しかし、欲が物への妄執(もうしゅう)すれば、

 

欲は限りなく暴走して
     人を迷わし、惑わしてしまうといわれています。

 

なぜ、心に妄執する働きが起こるのか。

 

それは

人に(むさぼ) (いか) (おご)の心が

生じるからだと説かれています。

貪りは「もっと欲しい」という

限度を知らず

求めるところから生まれる心の働きです。

 

手に入れたものを 手放したくないというのも 貪りです。

怒りの心は、(いきどお)り、癇癪(かんしゃく)瞋恚(しんに)などを意味して、

心に緊張が走り、

人へ罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を吐くことです。

驕りは 人が生来持っている心の働きです。

これには食べ物への驕りがあり、


   また 生まれ立場職業への驕りがあります。
 

特に後者の驕りは 多くの人が気にしています。

 

生まれや、職業に 貴賤はないのに、

人はランク付けを好む傾向があります。

 

驕りは

人の品格を落とす ことに気付くべきです。 

 


はこれまで述べてきたように、

薬のようで必要ですが、

 

薬を使用するに当たっては

用量と 用法を 守るようにしなければなりません。

 

必要以上に ものを求めないようにすることです。

 

そこで、


       釈尊

欲をなくするのではなく、

制御(コントロール)すること

 

を説かれました。

 

制御(コントロール)することができたら

 


    心は 自然に安らぎます。


仏陀(ぶっだ)は、伏惑(ぶくわく)の人とも呼ばれます。  
 

つまり一切の欲、

 

すなわち

貪り怒り驕りの心を

完全に制御(コントロール)した人、

という意味です。

 

仏陀 は 無欲の人ではありません。

 

   欲を制御(コントロール)できた人が 

 

  仏陀です。


少欲・知足・智慧



釈尊が


 釈尊が

 臨終に際して 説きのこしたとされる『仏遺(ぶつゆい)(きょう)(ぎょう)』には、

 

仏道修行者が守らなければならない

八つの徳目がしるされています。

 

これを『(はち)大人(だいにん)(かく)』(大人とは修行者の意)といい、

 

その中に

 

少欲(欲を少なくする)

 

知足(足ることを知る)

 

智慧(対象を正しく捉えて、真実の道理を見極める能力)

 

  の教えがあります。

 

釈尊は、智慧とは

 

老病死海を渡る堅牢(けんろう)な船」、

 

無明黒暗(むみょうこくあん)大明(だいみょう)(とう)」、

 

「一切病者の良薬」、

 

「煩悩の樹を伐る()()であり、

その智慧の水を

 

欲穢(よくえ)(貪欲のけがれ)にそそぐことによって

貪著(とんじゃく)(むさぼり執着すること)を克服して、

 

涅槃(ねはん)(迷いや悩みを離れた悟りの境地)に

 

達することができる と説かれておられます。

 

 

つまり少欲知足は、

 

まさに智慧の具現化であります。

 

言い換えれば

智慧ある者にして

 

初めて

少欲知足の道を歩むことができるのであり、

 

 

逆に少欲知足への道辿(たど)ることが、

 

すなわち 智慧ある者への道 である

 

といい直すこともできます。

 

 

少欲知足 と 智慧とは

まさに 表裏一体の関係 にあるのです。

 

貪欲を克服し、

足るを知ることが、

すなわち智慧であります。

 

          事足れば 足るにまかせて 事足らず

 

      足らで事足る 身こそ安けれ 

 

(南光坊 天海)


生死の疲労 は 貪欲より起こる


ー――生死(しょうじ)とは、

 

目覚めなき生

すなわち迷いのことです。

 

仏法では

迷いの時間的表現を

生死といいます。

 

迷いの疲労の原因は、

 

何処までも貪欲

 

すなわち自我中心 欲望より起こります。

 

 

もし、人間がこの世に生まれて、

 

ただ欲望のままに

自己中心に生きて終るならば、

 

流転(迷いの生死を繰り返すこと)のであり、

空しく過ぐる人生であります。

 

この世に 何の為に生れてきたのか も わからず、

 

何が 本当の生命の()(どころ)であるかも 知ることもなく、

 

まして

生命のゆくえ などはおよびもつかないまま、

 

むなしく過ぎ去ってしまうのです。

 


 苦の原因 貪欲と おさえて、

 

最も制御(コントロール)しがたい

自我中心の思い  から

生み出される欲望、煩悩に

メスを入れて

自分を戒める努力が大事です。

 

そして、

煩悩の有る行為より

 

産み出される迷いではなく、

 

煩悩の無い行為から

 

産み出される世界に目覚めるならば、

 

身心ともに

とらわれのない

自由自在の境地に 住することができます。

 

とはいうものの、

貪欲を制御(コントロール)することは、

はなはだ困難なことです。

 

しかし、

日々、心掛けて努力していると、

 

だんだん迷情妄執の束縛から解放されて、

 

    一歩 一歩 

 

 安楽の境地 に近づくことができます。

 

 


怠らず、張りつめず、急がず、

 

しかも休まず、一歩一歩。

 

 

*『四苦八苦』(その九 )—―『三話・八苦』「五、五蘊盛苦」につづく


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円