9月の言葉「病苦」



四苦八苦(しくはっく)その四


―—人生を苦しくさせる八つの原因—―



二話 四苦(生老病死)


三、病 苦―—病によっておこる苦しみ


私たちにとって、健康ほど幸せなことはありません。

 

地位があっても、

財産があっても、

 

健康があってこその幸せであります。

 

では、健康とはどういうことか

 

と改めて問いなおしてみると、

これは なかなか難しいことだと気がつきます。

 

どこにも悪いところがない、

なかなか得がたいことです。

 

誰でもどこかに故障があるのが

人間の常ではないでしょうか。

 

「丈夫でいます」

と言っている人でも、

 

なんらかの薬を服用したことぐらいはあるはずだし、

 

ちょっとした風邪を引いたり、

手足をケガしたり、

といったことはあるでしょう。



そうなると一生の間、

 

常に健康で過ごせる

 

ということがいかに難しいか、

ということがわかります。

 

まして、

心のわずらいということになると、

 

おそらく、

一度もそれにかかったことがない、

 

などと言い切れる人などは、 

まず一人もいないといっても 過言ではないかと思います。


病は気から


だからこそ、

昔から「病は気から」

―――病気は気の持ちようひとつ、

 

つまり、

心の持ち方次第

よくも悪くもなる、といった意味で 

 

単に「病」といわずに

病気という言い方をしてきました。

 

ですから病気というものが、

 

けっして 肉体的なものを意味しているのではない、

ということを わすれてはならないと思います。


健康は 第一の利なり


人生百歳時代といわれる今日、

いくら長く生きたとしても、

 

その間に、心身ともに健康でなければ、

生きている意味は半減するでしょう。

 

まして、心の健康がなければ、

 

たとえ身体がどんなに丈夫であったとしても、

 

ほんとうに人生を味わい 十分に楽しむ

ということにはならないでしょう。


国宝 釈迦如来座像(平安時代/室生寺)


釈尊は健康について


釈尊は健康について次のように説かれています。

 

 

無病(健康)は 第一の利なり。

 

涅槃(ねはん)は 第一の安楽なり

 

(すべて)の道は (はっ)正道(しょうどう)にして

 

 

安穏(あんのん)甘露(かんろ)(じゅう)す。

 

(原始仏典『中阿含経』)


上の句は、

当然ながら

単に肉体の上だけでの健康を意味しているのではなくして、

 

精神的な安定感としての

 

心の健康をも意味しています。

 

 

心が健康でいるということは、

 

仏法(釈尊の人間教育学)でいうと、

涅槃

 

すなわち、

すべての煩悩の火がふきけされて、

 

迷いや

悩みを離れた

悟りの境地に 住するということです。

 

心を健康にするには、

それなりの方法 が 必要なのです。

 

その方法が、

ここにあげられている 八正道であります。


四諦八正道


釈尊は、

菩提樹下で悟りを開かれた後、

 

ヴァーラーナシ―郊外のサールナート(鹿野苑)というところで、

最初の説法をなさいました。

 

その時に説かれた教えが

四諦八(したいはっ)正道(しょうどう)であります。

 

四諦のとは、

あきらかにするという意味で、

 

真理のことです。

 

 

四諦とは、

迷い と 悟りの両方にわたって

を あきらかにした四つの真理をいいます。

 

 


サールナート(鹿野苑)


四つの真理(苦集滅道)


苦諦(くたい)—――この人間世界は苦しみに満ちている、

 

生も苦しみであり、

老いも、病も死もみな苦しみである。

 

うらみあるもの と あわなければならないことも、

愛するもの と 別れなければならないことも、

 

まことに 

執着を離れない人生は すべて苦しみである。

 

これを苦しみの真理(苦諦)といいます。

 

 

集諦(じったい)—――この人生の苦しみが、どうして起こるのかというと、

 

それは

人間の心につきまとう煩悩から起こる。

 

その煩悩をつきつめていけば、

生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしている。

 

    これを苦しみの原因(集諦)といいます。

 

 

滅諦(めったい)—――この煩悩の根本を残りなく滅し尽くし、

すべての執着を離れれば 

人間の苦しみもなくなる。

 

これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦)といいます。

 

 

 

道諦(どうたい)—――この苦しみ を 滅し尽くした境地に至るには、

 

八つの正しい道(八正道)を

実践しなければならない。


正しい病状


釈尊四諦八正道の教えは、

 

医者が病人を治療する方法 に よく喩えられます。

 

 

まず、人が苦しんでいるという現実から出発し、

 

相手は 何が苦しいのか、

 

何を苦しんでいるのか

 

その人の正しい病状 を 把握することからはじまります。

 

 

 ・例えば、医者が患者の病気を治療するには、

 

  まず病気そのものを正しく診察しなければなりません。

 

  腹痛でも、

  どのように痛み、

  どのような病状を現わしているのかを

 

  正しく診断しなければなりません。

 

  これが苦諦です。

 

 


病状がわかれば


次に病状がわかれば、

その病気が同じ腹痛であっても、

 

寝冷えによるものか、

食べ過ぎなのか、

病原菌によるものか、

 

その病気が

いかなる原因から生じたのかということを

正しく突き止めなくてはなりません。

 

これが集諦です。

 

 

たとえ一つの病気として

症状が現れていても、

 

いくつかの複数の原因によって起っている場合もあるので、

医者はその原因を突き止めます。

 

病因が正しく把握されなければ、

適切な治療はできません。

 

正しい病状の判断、分析と、その原因の究明が、

まず先決課題であります。

 

病気の原因がなくなり、

完治し健康な状態となるのが滅諦です。

 

それは苦のない理想の状態を指します。

 

 

さらに、医者が病人を治療し、かつ再発防止のために、

いろいろな処置をとりますが、

その処置に相当するのが道諦です。

 

 

八正道は、道諦を説いたもので、

四諦の中でも

主要かつ実践的な教えであります。

 

 


八正道(八つの正しい道の実践)



苦しみを滅し尽くした境地に住するには、 

 

八つの正しい道 

 

実践することによって到達できます。


 

(しょう)(けん)――正しいものの見方。

   すなわち、仏法の根本原理であるのである。

 

すべてのものは移り変わるという諸行無常の道理と、

 

永遠に生滅変化しない「我」というものはない

という諸法無我の道理に立って、

 

すべてのものを 

あるがままに知見するのが 正見 です。

 

すべての存在は 移り変わるのに、

 

そのことを忘れて、

 

自分 と 自分のものは

 

いつまでも

このまま存在しつづけると

 

思い違いして

 

苦しんでいるのが私たちでないでしょうか。

 

   すべてが生滅変化するのに、

   自分は

      いつまでも確かだと

 

   「我」固執(こしゅう)するから、

 

窮屈(きゅうくつ)な人生になって

苦しんでいるのが

私たちではないだろうか。

 

 

次に②の正思(しょうし)(ゆい)から正念(しょうねん)までは、

 

いかにすれば正見に達することが出来るかを

具体的に示したものです。

 

 

② 正思(しょうし)(ゆい)――正見に合致するように 熟考(じゅっこう)することです。

 

 

③ (しょう) ()――正見にかなうような 正しい言葉をつかうこと。

 

 

④ (しょう) (ごう)――正見に一致するように 正しい行いをすることです。

 

 

⑤ (しょう)(みょう)――正しい生活 ということで、

              正見にかなった煩悩に執われない

              清められた生活をすることです。

 

 

⑥ 正精進(しょうしょうじん)――正しい生活(正命)を 実現するように

                 精進努力することです。

 

 

 (しょう) (ねん)――正しい(おも)い。

       つまり 正しい生活(正命)をするように

              常に(おく)(ねん)(心の中に堅く思い抱いていること)を

              忘れないことです。

 

 

以上の②の正思惟から、⑦の正念までの六つは、

 

正見を根本に展開されるものです。

 

 

 

⑧ 正定(しょうじょう)とは、心を統一して静かに対象を観察し、思索(しさく)して、

 

実の道を悟ることによって、

 

正見

本当に 身につく ということです。

 

 

に執われることなく、

 

すなわち

煩悩に引きずり回されない人生を

実現するためには、

 

人生をあるがままに見る正見が、

 

正定という

 

実践に よらねばならないことを示されたものです。

 

 


安定した状態


私たちは、 

常に 不安定な状況の中で生活していますが、

 

そのような状況 を 正しく認識し、

 

少しでも 安定した状態 へと

向上してゆく努力が大事です。

 

単に肉体的な健康だけを追求するのではなく、

 

精神的な心の健康

十分心掛けていくところにこそ、

 

真の幸福 が あるのはないのでしょうか。


一 病 息 災


  ―――病気になるのはいやなもので、

痛みはあるし、

身体は衰弱するし、

 

周囲の人々に迷惑はかけるしで、

愚痴のひとつもこぼしたくなります。

 

しかし、

病気になってよいこともあります。

 

それは、

日頃多忙にかまけて 見失いがちな

 

自己を反省する

よい機会を与えられるからです。

 

昔から「一病息災」といい、

 

一つくらい持病のある人のほうが、 

そのために

身体に気をつけるので、

 

健康に留意しない丈夫な人よりも、 

かえって 健康だ といわれています。


闘 病 生 活


21日間下座行(平成20年/京都・四条河原町)


 ―――私は長年、

繁華街の歩道で下座行(路上坐禅)を行じ、

 

そのために

排気ガス や 粉塵を吸い込んだのが原因で

気管支炎を患いました。

 

胸痛、咳き込み、血痰、発熱

—―医者の治療も効き目なく、

 

だんだん身体の節々が痛みだし、

ものがうまく持てなくなり、

歩行も困難となりました。

 

その時、

縁あって砂蒸し療法の効能を知り、

指宿の 天然砂蒸し温泉 で 闘病生活一年。

 


自然体のリズムをつかむ


―――廃人になるかという病気になってしまった。

 

さて、どうすればよいか。

 

初めのうちは、

病苦 と 闘って勝ち抜くほかないと

気力 を 奮い立たせました。

 

しかし、

病人の身で

 

負けないぞ

 

と力んで 病気と格闘することは、

苦しく 決して楽くではありません。

 

そこで、

病気と面と向って闘争するのではなく、

 

身を自然のリズムにゆだねて、

心のはからいを離れ、

一切を素直に正受し

 

病と遊ぶの心境 に住すると、

 

心はかるくなり、

 

自然体のリズムで、

 

日々の生活を過ごせるようになりました。

 

そして御蔭様で

健康を回復し

日常生活に戻ることができました。

 

 


心の置き所


――人生で起ってくるものに 

無意味なものは 

一つもありません。

 

 

善縁にしてプラスにするか、

 

悪縁にしてマイナスにするかは、

 

その人の心の置き所 にかかっています。

 


病気は一見、

悪縁でマイナスと思われますが、

 

人生を深く知るうえで、

善縁になります。

 

 


人生は 心ひとつの 置き所


病気になって

 

ああ、いやだ いやだと考えるか、

 

それとも

この病気になったことが、

 

自分にとって一つの試練であり、

 

自分の生き方について、

 

もう一度考えてみるための

 

機縁を与えてくれたのである」

 

と考えるかによって、

 

それから後に残された

人生の意味は

まったく違ってきます。


人生は 心ひとつの 置き所

 

楽も苦となり 苦も楽となる


『四苦八苦』(その五)二話『四苦』(生老病死)
   「㈣、死苦―死を逃れえない苦しみ」に つづく――


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円