8月の言葉「老苦」



四苦八苦(しくはっく)その三


―人生を苦しくさせる八つの原因—―


二話 四苦(生老病死)


二、老 苦―老い衰えていくことの苦しみ


根本仏法(釈尊の人間教育学)の教え


「苦」というのは
単に
「楽」の反対、
つまり、楽しいことはひとつもないという、

  楽に対する 苦しみ という次元の語句ではありません。

「苦」とは、
    仏教語大辞典をみると

「思い通りにならぬこと。身心を悩まされて不安な状態」とあります。

 

 


 人生において、

自分の思い通りにならないこと、

 その代表が、

  老いと 病いと 死 であります。

 

  老いは、

  どういう意味で  であるかといえば、

 

  人はだれでも、

  いつまでも若くありたいという願い、

 

  願いと言えばきれいですが、

  はっきり言えば

  若くありたい という 欲望です。

 

  ところが、

  その欲望通りにならなくて、

   人は 必ず 老いを迎えます

 

  それは欲望 現実が矛盾するのです。

  また、同じように
  人は いつまでも健康であり
たい と願います。


しかし、

全く反対の 病気が、

これは予定表にはなかったはずですが、

病気になる。

 

そして、

誰でも思う、

いつまでも 生きていたいのです。

 

しかし、

人には 例外なく がやってくる。

これらは私たちの思い、欲望 相容(あいい)れない矛盾の世界

人はこの矛盾の世界に

身心を悩まされて 不安におそわれる。

 

そして人は、

この矛盾の世界「苦」すなわち 不安 という結果に苦悩し、

 

あくせくすることに 終始してしまいがちです。


しかし、

苦・不安の原因自分の内

 

つまり、

無明(むみょう)(真実の道理に暗いこと)・無智(むち)(物事を正しく捉える智慧がないこと)、

 

煩悩(身心を悩ます心のはたらき)という

 

苦の原因を凝視し、

 

その事実から目をそむけることなく

確りと対峙する 勇気を持つことが大切です。

 

ところが、

苦・不安の原因を に求めているあいだは、 

いつまでたっても 苦・不安からの解放は ありません。


  私たちは、人生の苦・不安に出会ったとき、

 

何で自分だけが、こんな目にあうのか、とか、

他人よりは少し善人だなどと思って

に向って腹をたて、

 

そのあげくの果ては

愚痴 と いいわけに終始しがちなところがあります。

 

愚痴といいわけの世界は 暗い闇です。

 

人は、ただ 自分の思い や 計算だけ で生きようとするとき、

 

かならず 行きづまり挫折に終ります。

 

それこそが 闇の世界なのです。

 

ここで大事なのは、

私たちの人生をにほうむりさってはならない。

 

不安と絶望ではいけない。

 

不安と絶望ではなく 超克です。

 

すなわち 乗り越えるの発見です。


人生 は 道 である


釈尊生誕地

 

ルンビニー/ネパール


――とは、

自らの責任において 歩むものです。

 

 逃げたり、思い通りにいかなくなったときに、

 

  時代や社会や他人のせい(・・)にせず、

 確りと これを見つめ、

  内なる仏性(真実の自己)を 源から照らし出し、

   闇 を へと転じて、

 前向きに生きる努力が 大事であります。


老後の初心 忘るべからず


日本文化の伝統における芸道や武道では、

 

必ず「初心忘るべからず」という言葉を

習練のために用いられます。

 

この「初心忘るべからず」という言葉を初めて使ったのは、

能楽を完成した観世流第二祖・世阿弥元ぜあみもときよです。

 

世阿弥は、

主著『()(きょう)』の中で「万能(まんのう)一徳の一句」をあげています。

 

その一句とは何か。

 

それが「初心忘るべからず」です。

 

是非(ぜひ)初心忘るべからず

 

時々(ときどき)、初心忘るべからず

 

老後(ろうご)、初心忘るべからず

この中で、老後、初心忘るべからずの一句が

 

八十一歳の私の心に ぐっとしみこんできます。

 


世阿弥は、


世阿弥は、

「是非(上手下手)によらず、

習い始めたころの芸や、その頃の未熟さや、

修行のそれぞれの段階で得た 最初の経験 を忘れてはならない」と教え、

 

能楽に携わる者にとっては

一生涯が初心であると言い切っています。


初心忘るべからず――


「学び始めた当時の気持を忘れてはならない。

 

常にした時の

 

意気込み 謙虚さ真剣さ をもって

 

事に当らねばならない」。

 

この教えは、

ただ能楽の道に限られた言葉ではなく、

 

どの「道」

どの世界にも通じる金言であります。


私たちの寿命には

必ず 終りがありますが、

 

   人間修行

     ―――つまり芸道や武道、また渡世の職人道、商人道、百姓道。

そして医道、師道、仏道修行などなど

人となる道を歩むものには、

これでよし という限界はありません。

 

死ぬまで未完成

死ぬまで勉強であります。


老いて ますます己を省みる


最後の21日間下座行
東京・池袋東口/平成26年3月


  若いときや壮年のときは、

親も師もいてくれたし、

先輩もいますから、

 

自分の生き方や、

ものの考え方が道理からそれているときは、

叱ってくれたり

注意したりしてくれました。

 

しかし、自分が老齢になると、

親も師も、先輩も亡くなってしまって、

今は一人もいません。

 

正直なところ、私が若い頃、

私を慈愛の心で叱ってくれるのですが、

(けむ)ったく思いました。

 

そうした人が 一人もいなくなってしまった今、

私は 自分の言動に 不安を感じます。

 

 「叱ってくれる人がいるうちが花だ」

  言われたときは抵抗を感じましたが、

 

現在はこの言葉の重さが、

ずっしり感じられます。

 

  そして、

  老いたるにしたがい、

  自分自身を、日々、省みないと

 

  知らず知らずのうちに

 

  自分は堕落してしまうと自覚し

 

 身のこなし・ものの言い方・ものの考え方

  調えるよう心掛けています。

 


(おの)れを(かえり)みる者は、(こと)()れて(みな)薬石(やくせき)()る。

 

自分の言動を

 

常に反省する人は、

 

見ること、聞くこと、また出会うこと、

 

みな良薬となり、いましめとなり、教訓となる

 

(『菜根譚(さいこんたん)』前集一四七


『四苦八苦』(その四)二話『四苦』(生老病死)

 

「三、病苦――病によっておこる苦しみ」に つづく――


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円