6月の言葉「四苦八苦」その1




四苦八苦(しくはっく)その1


――—人生を苦しくさせる 八つの原因—――


一話 苦とは何か


「仕事をにする」


「生活に四苦八苦する」


あれば楽あり」


しいときの神だのみ」

 

などと使われる「苦」という言葉は、

 

身心を逼迫して不快にさせる状態を指します。

 

 

それは、精神面・物質面にわたって、

人間の身心に及ぼす 苦しみ や 悩み をあらわしているもので、  

 

つまり人生において、

まず 障害となるものです。


たしかに人生において、


  苦しみ とか 悲しみとか 悩みとかいうものは、

 

喜びや 楽しみに対して、


  どうしても 避けることができないものです。

 

 

このように私たちは

 

常に苦労・苦悩・苦悶・苦痛を感じながら 

 

生きて行かなければなりません。

 

 

しかしながら、私たちは、ここで、

 

なぜ自分がこのような「苦」を受けなければいけないのか、

 

その理由や根拠を問い、

 

さらに そこから 解放される方途を求め、

 

ここに「苦」をめぐる思索(しさく)や考察が導かれます。

 

 

そして、自分にふりかかる「苦」を 

 

ひとつの経験として 深めたとき、

 

そこに 人生を積極的に生きて行こうとする 

 

人生観が生まれてきます。


仏法(釈尊の人間教育学)の人生観も


また人生の現実はまさにである」

 

と受けとめる見方が

 

その基本的な姿勢です。

 

 

それは仏法の教えが、

 

他の宗教と根本的に違う点を高く掲げている

 

四つの旗印である四法印(しほういん)(文末に掲載)の帰結となる。


祇園精舎(インド)


一切皆苦(いっさいかいく)


一切(いっさい)(かい)() (一切の執着あるものはすべて苦である。

 

        これは執着を持った凡夫をいったもので、

 

       自我の執着のあるところには、

 

                 必ず苦が起こるということ)の 理念によって

 

                まず あきらかにされています。


仏法の根本教説である

 

四つ真理四諦(したい)の第一は、

 

苦諦(くたい)(この生存の世界は 苦悩の世界であるということ)です。

 

     この考えは、釈尊自身の人生において

 

         直面された事実であり、


     そこから求道がはじまり  

 

 解脱(げだつ)(この世のすべての煩悩から解放され、

 

     迷いの苦悩から抜け出て、

 

     真の自由の境地に達すること)へと至られたのです。

 

は、仏法の出発点 であったわけです。

 


この「苦」は、

 

仏典に種々の概念によって分類されています。

二苦――内苦(ないく)(自己の身心より 起こる苦)。

 

      ()()(外的作用により 起こる苦)。

 

 

三苦—――()()(不快なものから 感じる苦)

 

   壊()()(好きなものがこわれることから 感じる苦)

 

  行(ぎょう)() (ものごとが移り変ることを見て 感じる苦)。

 

 

四苦—――生苦・老苦・病苦・死苦。

 

八苦—――生老病死の四苦と

 

(あい)別離(べつり)()(愛するものとも かならず別離しなければならないという苦)

 

怨憎(おんぞう)会苦(えく)(怨み憎しむものとも 会わなければならないという苦)

 

()不得(ふとく)()(求めるものが得られないという苦)

 

()(おん)(じょう)()(人間の身心を形成する五の要素が盛んになることによって起こる苦)。


釈尊最後の旅 

(ビーマ・セーナ・カー・パッラ丘)


このようにみると、

 

には 内面的なもの と 外面的なものとの 二つに大別できますが、

 

ともかく 私たちは絶えず「苦」というものを抱いているわけです。

 

しかし、この「苦」すなわち苦しみ や 悩みは、

 

私たちをして、

 

人間そのものの在り方凝視(ぎょうし)させ、

 

生きるに価する価値とは何か

 

を探求させるもととなります。

 

 

そしてを主体的にとらえ、

 

その本質を知り、

 

 そこから脱却しようとする

 

  力強い積極的な態度を示すに至るのです。


五つの壁


 この世において、

 

どんな人にも なしとげられないことが 五つあります。

 

 

・  一つには、老いゆく身でありながら、老いない ということ。

 

   二つには、病む身でありながら、病まない ということ。

 

   三つには、死すべき身でありながら、死なない ということ。

 

   四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びない ということ。

 

   五つには、尽きるべきものでありながら、尽きない ということです。

 


どうしても避けられないもの


生きているかぎり、

 

絶対に対処しきれない現実というものがあります。

 

それは、

 

どんな人でも、老い・病い・死から逃げられず、

 

ものは 必ず滅び

 

やがて尽きなくなってしまうということです。

 

 

この(ろう)(びょう)()(めつ)(じん)という五つの壁は、

 

避けることができない仕組といってもよいでしょう。

 

 

この世に

 

不変のままあり続けるものは ないのです。

 

それでは、私たちはどう生きていったらよいのか。

 

―――「四苦八苦」その二につづく (長期連載)

 


四法印(しほういん)


四法印(しほういん)

 

四法印とは、

 

諸行(しょぎょう)無常(むじょう)諸法(しょほう)無我(むが)一切(いっさい)(かい)()涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう) という四つの教えです。

 

 

まず、諸行無常とは、

 

すべての(ぎょう)現象)は

 

常に変化する無常のものである ということです。

 

 

諸法無我とは、

 

すべての法(もの)は、

 

他との関係なしに孤立独存の固定したものではなく、

 

時間的にも、空間的にも、

 

周囲と関連した相対的、相関的なものでるある ということです。

 

「我」とは固定不変の実体、本体を意味し、

 

現象的人生には固定したものや、

 

状態がないというのが

 

「無我」の意味です。

 

一切皆苦については、1ページを参照。

 

 

涅槃寂静とは、

 

執着を離れて涅槃という理想に到達すれば、

 

心が安定し、

 

寂静平穏のものとなることを意味します。

 

涅槃とは、

 

貪(むさぼり)・瞋(怒り)・痴(愚かさ)などの

 

すべての煩悩の火が、

 

消えてなくなった最高の悟りを意味します。

 

そこには苦悩や愁いや悲しみなど全くないから、

 

寂静といいます。

 

このような理想を

 

放げる心情や習慣などが煩悩です。


この四つの中で、

 

前半の無常・無我ということは、

 

仏法の教えの中で、

 

いかにあるか」という社会、

 

人生の動き(無常)や関連(無我)を述べたものであり、

 

後半の苦・寂静の二つは、

 

人生の理想に反する場合のと、

 

理想に到達した場合の

 

寂静平安のを述べたものであります。

 

自我へのとらわれから生じ、

 

寂静

 

逆にそのとらわれを滅することによって 

 

生じたものであります。

 

 


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円