4月の言葉「迷惑」




迷 惑 (めいわく)


「近所迷惑」「有難迷惑」「迷惑千万」とか、

 

「全く迷惑な話だ」「人の迷惑も考えないで」などといわれるこの迷惑は、

 

現代では不利益とか  不都合という意味に使われています。

 

 しかし、

 

 「迷惑」

 

 道理に迷い惑うことを意味する仏法用語です。


迷惑

 

梵語のプラーンティの漢訳で

 

道理に迷い惑うこと。

 

「心に迷い惑う」ことを意味します。

 

漢訳にはほかに

 

迷妄(めいもう)(真実の道理に暗く、虚を真実と誤り思うこと)、

 

(めい)(らん)(煩悩に心が迷い乱れること)などもあり、

 

の意味が強い。

 

つまり

煩悩(ぼんのう)によって

 

心が迷うことを 迷惑といいます。

 

 

それは仏道修行の最も大きな障害になり、
 

しかも なかなか退治できないものであるから、

 

それが厄介者、困ったものとしての意味が転じて、

 

この言葉が

 

現在一般に不都合という意味に

 

使われるようになったともいわれています。

 



のみをみれば、

 

は梵語クレーシャの漢訳で

 

 煩悩とも訳します。

 

クレーシャとは、

 

執着(しゅうじゃく)とか

 

心を苦しめ損なうものとかを意味する言葉です。

 

 

  仏法(釈尊の人間教育学)では、

 

 さとりを 妨げる 根本的な心の惑い、

 

 すなわち、

 

 自分の内から起こり漏れ出て、
 

 自分自身を迷わし悩ませる 自己の欲心

 

 煩悩といいます。


 したがって、
 

  釈尊の人間教育学でいう迷惑」は、煩悩によって心が迷うことを意味するといえます。

 

 


釈尊が修行の為、一旦入った地(前正覚山)


わが迷いには 限りがない


—――—――迷い

 

元来織物の糸や髪の毛が乱れる という意味で使われていました。

 

それが 心を奪われて

 

そのことを忘れてしまう意の

 

(まぎ)れるの意味でも使われるようになって、

 

心がさまざまな煩悩心を乱されている状態を 表わす言葉として

 

一般に使われるようになったようです。


釈尊が初めて仏法の教義「初典法輪」を説いた地(サルナート)


古語では迷い は (まど)という意味で使われ、

 

のちになると

 

(もう)(じん)(迷いの心)、

 

妄念(もうねん)(おぼえていたことを忘れてしまった心)などとも表されています。

 

 

いずれの意味をみても、

 

織物の 縦糸と横糸 が(から)まり、

 

なかなか解くのが難しいように、

 

迷いの心 

 

何処から来て、

 

いつ消えて、

 

そして何処に去ってしまうのか

 

 まったくわからない

  正体不明の厄介者です。


私は釈尊の人間教育学だけではなく、

 

物事を学べば学ぶほど

 

いろいろな疑問が湧き、

 

わからなくなってしまうことが 多々ありました。

 

 

反対に知らないでいると、

 

かえって

 

物事の真実がわからなくなり、迷ってしまう。

 

真実の道理を 知る も 知らぬも

 

迷いを生じるのであれば、

 

いったい 自分はどうすればよいのか、

 

 

これも迷います。

 

 

つまり生きている間、

 

さまざまな経験をするなかで、

 

凡愚の私には 迷いを避けることはできない。

 

なぜか。

 

 


なぜか?


それは前にも述べたように


迷い、すなわち煩悩

 

自己中心の我執から生まれるからです。

 

生来(せいらい)、人は自己中心に物事を考え、生きています。

 

この我執がなくならない限りは、

 

迷いはなくらない。

 

では、どうすれば我執をなくし、

 

 

心の安楽 を 得ることができるのか。


迷いという 病気の治し方


――釈尊は

 

自分の心を制御(コントロール)することを説かれました。

 

 

釈尊の人間教育学 

 

根本教説である *「四聖諦(ししょうたい)(四つの真理)、

 

すなわち苦集滅道の「の原意は制御という意味です。

 

  つまり

 

(げん)耳鼻(にび)(ぜつ)(しん)() の 六つの感覚器官を

 

完全に制御できた状態をいいます。



この状態がさとり、真の安楽(やすらぎ)です。

 

欲 を 滅ぼすことではない。

 

 

妄執(もうしゅう)(迷いの心による物事に執着すること)がなくなる。

 

いわゆる三毒(むさぼり・いかり・おろかさ)が 生じなくなることです。


この実現には

 

(はっ)正道(しょうどう)(八つの正しい実践)

 

すなわち

・正(しょう)(けん)(正しい見方) 

 

正思(しょうし)(ゆい)(正しい考え方)

 

正語(しょうご)(正しい言葉)

 

正業(しょうごう)(正しい行い)

 

(しょう)(みょう)(正しい生活)

 

正精進(しょうしょうじん)(正しい努力)

 

正念(しょうねん)(正しい(おも)い)

 

正定(しょうじょう)(正しい心の統一)

 

を怠らず実践することです。

 

八つの正しい実践徳目を

 

全身心にしみこませる

 

しみこませて

 

自分の身心を律するのです。

 

 

実行実践するのはなかなか難しいが

 

怠らず、張りつめず、

 

急がず、しかも休まず、一歩一歩努力して前に進む、

 

繰り返し訓練すると 何事も習得できます。

 

 

釈尊は、八正道の一つひとつを時間をかけて身に付けると、

 

人はかならず 仏陀になれる と説かれました。




愚かにして 愚かさを知る


わが煩悩は雲のごとく湧き起こり、

 

おのれの迷いは尽きることがない。

 

自分は、弱く、もろく、愚かな凡夫だと自覚した瞬間、

 

仏陀釈尊の教えが 全身心にすうっとしみこんできました。

 

 

そして、初心にかえって日本三大渓谷・伊勢大杉谷の山居に籠り、

 

仏道修行を遣り直して七年八ヶ月—――

 

さとったと思ったあとに 腹をたて

 

迷い迷って またまたさとる


迷中又迷中(めいちゅうまためいちゅう)、迷いの中で またさらに迷いを重ねる中で、

 

人は迷いながらも前に進もうとする意志が大事だ と気付きました。

 

それからは、

 

愚かな自分だからこそ

 

仏陀釈尊に直入し、

 

釈尊の人間教育学 を 人生の道しるべとして、

 

日々の生活の中で

 

一つひとつ実践していくよう努力すると

 

心がだんだんゆたかになり、

 

一日を充実して生きることができるようになってきました。


怠らず、張りつめず、急がず しかも休まず、

 

        一歩一歩前に進む。仏陀となる道を

 

 

 仏陀も昔は凡夫なり

 

凡夫も 未来は 仏陀なり


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円