3月の言葉「どっこいしょ」




どっこいしょ


日本人は昔から、

 

きれい好きな、清潔を愛する国民で、

 

その清潔感は道徳感覚と相通じるものがあります。

 

 

たとえば、道徳的に品性の高い人を、

 

あの人は「人格高潔な人」とか、「きれいな人」「清潔な人」などといい、

 

反対に不道徳な人を

 

あいつは「きたない」とか「よごれている」などといいます。

 

 

こうした日常の言葉をみても、

 

 清潔感と道徳観 

 

  表裏一体となっていることに気付かされるます。


仏典に


仏典に心清ければ 国土浄しという言葉があります。

 

 

ここにいう国土とは、

 

身のまわりとか地域社会のことですから、

 

心が清ければ

 

周囲が浄らかになるということです。

 

 

ところが今日、

 

山の(みち)(ぎわ)や谷、(かわ)(べり)にはビニール袋やペットボトル、空カンなどが

 

投げ捨てられて よごれているのが目につきます。

 

 

これは 日本人の心 が よごれていからといえます。

 

 

昔の日本人なら

 

山を汚すようなことはしなかったでしょう



私たちの祖先には、

 

山岳全体 を 信仰の対象とする神体山信仰があり、

 

山に登る時などは六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)を口々に唱えました。

 

 

六根清浄と唱えることは、

 

身も心も清浄無垢になろうとする 祈りの言葉す。

 

 

昔の人は、ただ単に山登りの時だけでなく、

 

日常の立居振舞にもこれを唱えていました。

 

 

「六根清浄」では長いので、

 

「六根浄」と略されたのが、

 

いつしかどっこいしょになってしまったといわれています。

 

 

祈りの言葉 掛け声になるまで、

 

昔の素朴な人々は

 

身心の清浄潔斎 を 念願として 生活をしたのであって、

  

 これは 今日の私たちが学ばなくてならぬ 祖先の美徳であります。



六根清浄


 六根清浄—――全国行脚中

 

大峰山、岩木山、御岳山や各地の霊山に登ると、

 

お山は晴天、六根清浄、六根清浄かけ声をかけながら

 

登山している一群の人々の姿をみかけることがあります。


六 根


六根—――樹木のが、

          外界の養分を吸収する器官であると同時に、

 

     枝葉 を 成長させる力を有しているように、

     

     人間の感覚器官が、

 

     外界の対象をうけ入れ、

  

     知覚を生ずるところからといいます。

        

      私たち人間は

 

            諸感覚器官によって

 

      外界の対象受容します。


先ず、視覚というものがあり、

 

仏法用語で (げん)(こん) といいますが、

 

これによって 事物の色や形を把握します。

 

 

心の窓である目によって、

 

芸術鑑賞をすることもでき、書物を読むこともできます。

 

 

次に、聴覚があります。

 

()(こん)いい、これによって音の響きをとらえます。

 

美しい音色も、騒音も入ってくるし、人々の言葉を聞くことができます。

 

 

嗅覚は、芳香や悪臭などのにおいをとらえます。

 

これを()(こん)といいます。

 

 

また味覚によって ものの味を知る。

 

舌根(ぜっこん)という—――以上の四つの感覚器官は、

 

体の特殊な部位にあるが、

 

このほか、全身にゆきわたっている触覚がある。

 

(しん)(こん)といい、

 

この力によって、冷たさ、熱さ、痛さなどを知覚します。

 

上の五つ機能をまとめて五根といい、

 

これらによって、

 

私たちは、身体的な快・不快を感じるのです。


五根は、いわば人間の外面的な門ですが、

 

もう一つの()(こん)の力によって、

 

人間は、

 

楽しさ、苦しさ、善さ、悪さなどを知覚することができます。

 

 

このようにして、

 

私たち人間は、六根という門を通じて外界の対象をとらえ、

 

経験を積み重ね

 

しだいに 人格を形成してゆくのです。

 

 

したがって、

 

六根は、

 

人間生活 を 基礎づけるものであるといえます。


六根を磨き、清めることは、

 

人間性を向上させることにつながる とみることができます。

 

 

六根清浄」は、

 

六根をきよめることであり、

 

それは内面的方法―宗教的信仰や修行、鍛錬(たんれん)

 

—――によって実現されます。


日常生活を


日常生活を

 

まったくかげりなく、清らかに過ごすことは、

 

はなはだ困難なことです。

 

 

どうしても いやなことを聞いたり、考えたりします。

 

 

これを積み重ねていると、

 

しだいに 六根に汚れがたまってくることはさけられません。

 

 

汚れにそまると、

 

なかなか落としにくくなるので、

 

   それを払いおとして 清める努力が大事です。


 

  山中(さんちゅう)(ぞく)(やぶ)るは(やす)く、

 

心中(しんちゅう)(ぞく)(やぶ)るは(かた)し。

 

 

山中にあって 人を害する賊を退治することはやさしいが、

 

心中の賊、私心を去ることはむつかしい。

 

中国、明代の儒学者で、禅に深い関心を寄せた王陽明の言葉です。

 

 

仏法用語に「六賊(ろくぞく)」という言葉があります。

 

人々の心に固有の六根眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)の別名です。

 

 

と呼ぶのは、

 

それが(とん)(むさぶり)、(じん)(いかり)、()(道理にくらい)の

 

三毒を引き起こし、

 

ついには 正しい心の有り様 を 害するからです。

 

 

外界に現れた賊は、

 

罪を厳しくし、取り締まりを強化すれば退治することは たやすい。

 

ところが 内なる心に住む賊は、

 

当の本人も 気付かぬうちに害毒を流します。

 

        

     気がついても、

 

    「これくらいなら」と、

 

   ついつい気を許してしまいます。



『法句経』に  

 

小悪 を 軽んずるなかれ、

 

  水の滴り微かなりとも、

 

  ついに 水瓶をみたすべし

 

という言葉があります。

 

 

浅ましや 

 

人の善し悪し 口にする

 

悲しきものは わが心かな

 

 

人の悪口を言い、うらみや そねみを持つことを

 

私たちは日常的に体験します。

 

 

事の善悪 を 判断する基準は むずかしい。

 

これくらいなら

 

という甘い判断が、

 

つぎつぎとを引きよせ、

 

ついには

 

取り返しのつかないほどの大悪となって、

 

人生を狂わせてしまいます。


ですから、

 

日々「六根清浄」と、

 

六根の汚れを 払い清める努力 が 大事になってきます。

 

 

書いてしまえば簡単で、やさしそうですが、

 

それを実践していくことは、生半可なことではありません。

 

 

地獄極楽 を 行きつ戻りつしながら、

 

人は 心の中の賊を退治するのです。

 

 

六根清浄、六根清浄、福徳円満


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円