一 切 唯 心 造
すべてのものは 心によって作られる
あさましや 人の善し悪し 口にする
悲しきものは わが心かな
わが心 仏もでれば 鬼もでる
地獄極楽 行きつもどりつ
自分自身の心ひとつをみても、心ほど不思議なものはない。
今の今まで嬉しいと思ったが、悲しくなったり、怒ったりする。
また、褒められたり、そしりたくなる。
わが心は 風のごとく、
ここにあるかと思えば、かしこにあり、その来たるや、いずくより来たるを知らず。
その去るや、いずくに去るを知らず。
実にわが心は 二六時中、この心に使役されて果てしがない。
食べたい、のみたい、遊びたい、いろいろな欲望に 心はかき乱される。
〈古 歌〉
わが心 池の水にこそ 似たりけり
濁り澄むことの 定めなければ
心とは何か
―――ここで問題は、「心」とは何かということです。
心は 体の何処にあるのか、
どんな色をしているのか、
心は どんな形をしているのか、
心は どんな音をし、どんな香りがするのか、
これについて 確信を持って答えられる人は、まず、誰もいないでしょう。
【法句経】の最初に
・ 心は、躁ぎ、動揺し、護り難く、制え難い。
・ 心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲望のままにおもむく。
・ 心は 極めて見難く微妙にして、欲望のままに動かんとする。
・ 心は、遠くに行き、独り動き、形なくして、胸の奥の洞窟にひそんでいる。
心は、まったく捉えどころがなく、正体不明の代物です。
人間の心は、
外界のさまざまな現象に応じて 猫の目のように絶えず次へと姿を変え、
内容を変じて生起してきます。
人間の心は、
常にコロコロと転がるから、俗にココロだという人もいます。
心には 姿や形、かくあるべきだという基準があるわけではない。
あるのはただ、
目や耳、鼻、口、皮膚などを通して外界を感じるとき、
心は 動き始めて
わがままな動きをし、
制御しがたい厄介者である上に、
知らぬうちに 自分自身を支配しています。
【法句経】の偈一、二
・ 釈尊は【法句経】の偈一、二で、
心に ついて次のように説かれています。
・ ものごとは 心に導かれ、心を 主とし、心に よって作り出される。
もしも 汚れたる心を以て、言い且つ行はば、
苦しみは その人につき従う。
・ ものごとは 心に導かれ、心を 主とし、心に よって作り出される。
もしも清らかな心を以て、言い且つ行はば、
福楽はその人につき従う。
ここに 汚れた心と 清らかな心という表現がありますが、
これにはいずれも「もしも」という 条件語がついています。
「もしも清らかな心で‐‐‐」となっていることは、
汚れた心も、清らかな心も、もともと無いことを意味しているのです。
ここの二つの偈は、
もし悪意をもって話したり、行動したりすると、
諍いが起こり、
恨みや憎みが残り、
そのことで自分が苦しみを受け、
不幸せになると教えています。
また、反対に、愛情のこもったやさしい心で
話したり、行動したりすると、
幸せ を招き、
喜びと 楽しさ が残り、
そのことで 自分も幸せになる と教えています。
幸せは 自分の心が作る
不幸せは 自分の心が作る
幸せも 不幸せも
まったく他人の仕業ではない
自分の心の置き所によって
幸せともなれば、不幸せともなる。
迷いも 悟りも 心の現われ
きく事も また見ることも 心から
みな迷いなり みなさとりなり
(島津日新公・いろは歌)
人の心の根源は、
清いも 汚れも無い 白露のごとく無色透明、無味無臭です。
清いとか、汚れているというのは、
人間の価値の世界であり、
人を喜ばせたり、人を苦しめたりする行為のことであり、
その行為をさせる 心の働きのことです。
そうした、心の波風が 起こる以前の 心の根源は、
損得の欲望に染まる以前の 寂静 なものです。
ところが、自我 と 外界の刺激がかかわり合うと、
得失・善悪・貴賤・貧富・美醜・愛憎という形になってしまうのです。
白露のおのが心を そのままに
楓に置けば 紅の玉
という古歌がありますが、
思うにこれは、
心の置き所を 選ぶことの大切さを 示された教訓でありましょう。
心の置き所
—―――元来仏法は「心の教え」であります。
仏典に
この心に 慈悲の徳ある、これを名づけて 観世音菩薩という。
この心に 勇猛の徳ある、これを名づけて 勢至菩薩という。
この心に 智慧の徳ある、これを名づけて 文殊菩薩という。
この心に 万行の徳ある、これを名づけて 地蔵菩薩という。
この心に 障碍なし、この徳を名づけて 虚空蔵菩薩という。
この心一切の境界を照らす、この徳を名づけて 大日如来という。
この心は 不生不滅なり、この徳を名づけて 阿弥陀仏という。
この心に 常楽あり、この処を 天道という。
この心に 苦楽あり、この処を 人間という。
この心に 瞋恚(いかり)あり、この処を 修羅という。
この心に 貪欲(むさぼり)あり、この処を 餓鬼という。
この心に 愚痴(おろか)あり、この処を 畜生という。
この心に 常苦あり、この処を 地獄という―――と。
かくの如く
この心に 種々無量の変化があるが、
皆 私たちの心そのものに 外なりません。
世の中は 心ひとつの 置き所
楽も苦となり 苦も楽となる
自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。
下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日に掲載。
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感謝合掌 住持職:釈 妙円