9月の言葉「煩悩」


煩 悩(ぼんのう)




仏性(真実の自己)を覆いつつむ煩悩(心のけがれ)に 二種類あります。

 

一つは道理に迷う理性の煩悩で、

 

これを見惑(けんわく)といい、

 

二つは、実際に当って迷う感情の煩悩で、

 

これを思惑(しわく)といいます。

 

この見惑と思惑の二つは、あらゆる煩悩の根本的な分類ですが、

 

このあらゆる煩悩の根本を求めれば、

 

一つは無明(むみょう)

 

二つは愛欲(あいよく)となります。

 

 

この無明と愛欲とは、

 

あらゆる煩悩を生み出す 自在の力を持っています。

 

そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのです。

 


無明とは無知のことで、

 

ものの道理をわきまえないことです。

 

愛欲は激しい欲望で、

 

生に対する執着(しゅうじゃく)の根本でもあり、

 

見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、

 

また転じて死を願うような欲望ともなり、

 

思惑の(もと)でもあります。

 

この無明愛欲を本にして、

 

これから

 

貪欲(むさぼり)瞋恚(いかり)愚痴(おろか)邪見(じゃけん)(うら)み・(ねた)み・へつらい・たぶらかし・おごり・あなどり・

 

ふまじめ・その他の いろいろの煩悩が生まれてきます。

 


煩悩の火は、おのれを焼く


煩悩(ぼんのう)()は、おのれを()く」が事実であることは、

自分がなにか欲しいと思うものが 

 

手に入りにくかった時の 自分

自分がしたいことの邪魔をする憎い人間が現れた時の 自分

好きになった異性に逃げられた時の 自分

 


  貪・瞋・痴の状態の 自分を思い出せば

 

誰でも思い当たることがあると思います。

 

 

だからといって煩悩を まったくなくしてしまうことは、

 

自分自身を見てもわかるように、

 

自己中心の欲望、即ち、煩悩の束ですから、

 

すべての欲望・煩悩をなくすることは、

 

   現実に生きている人間に できることではありません。

 


釈尊は、すべての煩悩をなくしなさい。

自己(われ)が存在しないと 説かれたのではない

 

―――およそ 自己の所有と見なされているものは、

 

常に変滅するものであるから、

自己の所有に 執着してはならぬ。

自分の身体でさえ わがものでないのであるから、

執着してはならぬ―――


「わがものでない」ということは、

我がものとして把握することはできないもの であるということです。

 

しかし、わがものとして把握できないにしても、

 

自分煩悩欲望の束であることを 認識することはできます。

 

言い換えれば、宇宙の真っ只中で、即今(いま)」・「此処(ここ)という一点に、

 

こうやって 生かされて生きて存在する自己(われ) というものを正確にみて、

 

われでないものに 執着しないようにということです。

 

執着しない状態に 自分を置くように心がけていると、

 

種々雑多な煩悩・欲望の中で、

 

時に喜び、悲しみ、いかり、また時に(むさぼ)りの心が ()き上がってきても、

 

いつまでもそのことを()()らず

 

無心に対処する

 

心のゆとりを保つことができるようになってきます。


一切衆生 悉く仏性有り


一切衆生(ことごと)く仏性有り

 

私たちは 生まれながらにして 尊い仏性(真実の自己)の所有者です。

 

どうしてそれに気付かないのでしょうか。

 

それは、

 

釈尊

 

「ただ、妄想執着を以ての故に証得せず」

 

「煩悩覆うが故に 不知不見」

 

と言われたように、

 

煩悩の雲に覆われて、その所在がくらまされ、

 

妄想の曇りが眼にかかって、

 

はっきりと見ることができないからです。

 

まず 煩悩妄想の流れを 切断することが 先決であります。


  ところで、煩悩だの妄想だのというと、

 

色気や食い気や欲気などに基づく 卑しい想念の意味に解されがちですが、

 

では、

 

有無・善悪・得失・勝負・貴賤・貧富・美醜・愛憎・苦楽・迷悟・生死など

 

というように、

 

物事を二つに分けて 相対的対立的に見ようとする分別心

 

そして、

 

その一方を嫌悪

 

一方を欣求しようとする執着心

 

それらを 煩悩妄想といっています。

 

 


泥中に咲く蓮の花



 泥中に咲く蓮の花

 

蓮華(れんげ)が 清らかな高原や陸地に生えず、

 

かえって汚い泥の中に咲くように、

 

煩悩を離れて 悟りがあるのではなく、

 

誤ったものの見方や迷いから、

 

(真理に目覚めた人)の種が 生まれるのです。

 

ぼんのうの (どろ)()()ける はすはな

 


青い色は青い光、赤い色は赤い光


青い色は青い光、赤い色は赤い光―――

 

『阿弥陀経』の中では、

 

池の中に咲く蓮の花は、車の輪のように大きく、

 

青い色の蓮の花には青い光、

 

黄色の蓮には黄色い光、赤い色の蓮の花には赤い光、

 

白い色の蓮の花には白い光があり、

 

それぞれ清らかな香りを放っている」と、

 

 

()弥陀仏極楽浄土の光景を 美しく比喩で称え説かれています。

 

 

「阿弥陀」は、無量寿(無限の時間)、無量光(無限の空間)の意。

 

は覚者、即ち、宇宙の真理に目覚めた人の意。

 

 



仏法では なぜ蓮の花を重視するかというと、

 

蓮という植物が、

 

汚い泥水の中にを置き、しかも、汚い泥水の中を通って成長し、

 

やがて水面に出て咲くが、

 

まったく汚れなく 美しいからです。

 

 

それは釈尊が、

 

四苦八苦で象徴される、この世のあらゆる汚れの苦しみの中で、

 

 

悟りという

 

清らかなを咲かせた という事実に適合すると考えられたからです。

 


阿弥陀仏 は 自己の心中に有り


阿弥陀仏は 自己の心中に有り――

 

 

自然の教え―――私が 水源山間地の荒廃した 山の再生に取り組んで、

 

山におしえられたことは、

 

杉・桧一色(いっしょく)の森は不健康であるが、

 

健康な森は、

 

(けやき)・山桜・(かつら)(とち)胡桃(くるみ)(やま)(ぐり)・杉・檜・松など

 

種々雑多な樹木が 厳しい条件の中で、

 

自分の置かれた環境に適応して

 

精いっぱい 生きているということです。

 

 

そして、山桜は山桜、杉は杉として

 

本来の自分自身の色を失わず、

 

しかも 互いに持ちつ持たれつで 共存共栄しています。

 

 



私たちの人間社会もこれと同じで、

 

その人の性格とか、境遇とか、経歴とか、年齢性別さまざまな条件で、

 

十人十色千差万別です。

 

健康な人間社会は、

 

皆すべて 一色に染まるのではなく、

 

それぞれの個性を持ったまま、個性を活かしつつ光るのです。

 

 

強い人は強い人なりに、

 

弱い人は弱い人なりに、

 

老いた人は老いた人なりに、

 

自ずから身にそなわった色の光りを 輝かせ香りを放てば、

 

自分の心は 阿弥陀仏となり、

 

身は極楽浄土に住し、

 

日々、幸せにすごすことができるようになります。

 

 

幸せは 自分の心が作る


令和 3年 9月 1日              

        自然宗佛國寺 開山  こくけん もくらい 合掌


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円