8月の言葉「差別」



差 別(しゃべつ)



近年とくに「差別」の問題が取り上げられています。

 

つい最近、自民党の女性代議士は

 

「本人たちが、差別だと感ずることについては差別だ」と述べたが、

 

では一体差別とは何か――――


「差別」は 一般には「サベツ」と発音しますが、

 

もとはシャベツ」といい仏教語です。

 

差別には、わかつ、ちがい、けじめ、分別、区別などの意味があります。

 

 

しかし、今日、差別という言葉からは、

 

不公平とか不平等ということが連想され、

 

あまりよい印象を受けません。

 

 


仏法(釈尊の人間教育学)では


仏法(釈尊の人間教育学)では、

 

元来、差別を悪い意味では使われませんでしたが、

 

おそらく現在普通に使われている差別は、

 

西洋の影響もあって、

 

近年になって作られた言葉なのかもしれません。

 


仏法本来の「差別」は平等の対語で、

 

現象界の個々の事象のように、

 

()()と (べつ)()であることを差別といい、

 

万象(ばんしょう)における普遍絶対の本体(永遠不変の真理)のように、

 

差別のないことを平等といいます。

 

 

ただし大乗(だいじょう)仏教では、

 

差別と平等と切り離して考えないで、

 

差別即平等・平等即差別もいいます。

 

ここに「」というのはイコールではなく、

 

自己(自我)否定を経た上での 両者の一如をいいます。

 


平等 と 差別



平等と差別――平等は差別の対語で、

 

仏教語でも「びょうどう」と読みます。

 

平等は、同等、一様、共通、普通などの意味をもっています。

 

 

釈尊は、古代インドにおいて、

 

社会の大きな枠組を示した()(せい)――

 

ブラーフマナ(聖職階級)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(庶民)・シュードラ(隷民)の

 

四種姓のこと―――の階級制度を否定しました。

 

 

釈尊からみた人間的価値の区別とは、

 

大きく分けると、

 

凡夫(非聖者)と 仏陀(さとったひと)(聖者)です。

 

 

簡単にいえば、

 

迷っている人悟っている人ということです。

 

 

そして、すべての衆生と 仏陀とは平等であり、

 

誰もが仏陀になりうる性質仏性(ぶっしょう)をもっており、

 

求道心を起こし、精進努力すれば、

 

誰もが仏陀になれる と説かれました。

 


生まれによりて 聖者になるのではない

 

生まれによりて 非聖者となるのではない

 

人は その行為によりて 聖者となるのであり、

 

その行為によりて 非聖者となるのである。

(釈 尊)


仏典では 一般化されている平等の意味も説かれていますが、

 

仏法独自のものとして差別に対する平等があります。

 

 

差別の世界はさまざまに変化し、

 

さまざまな現象を呈するが、

 

それをつらぬいている普遍的絶対的な真理

 

これを平等といいます。

 

 

この平等と差別の関係が重要なのです。

 


伝教大師最澄 の お言葉


  伝教大師最澄 の お言葉に

 

およそ差別無きの平等は 仏法に順ぜず、悪平等なるが故に、

 

また平等無きの差別は 仏法に順ぜず、悪差別なるが故に。」

 

とあります。

 

 

たとえば、人間はみな平等ではないかと 平等のみを主張して、

 

差別の面を無視するならば、それは悪平等というものです。

 

 

そうかといって、

 

老若・男女・貴賤・貧富などという差別の相にとらわれて、

 

人間は みな平等であるということを忘れるならば、

 

それは悪差別というものです。

 

 

ともに真実(ほとけ)の見方とはいえません。

 

平等の裏には 差別があり、

 

差別には 平等が裏付けされて、

 

平等と差別とが表裏一体、相即相入の関係であること、

 

即ち、平等即差別・差別即平等と観ずるのが仏法であります。

 


松無古今色竹有上下節


松無古今色竹有上下節(まつ)古今(ここん)(いろ)()く、(たけ)上下(じょうげ)(ふし)()り。)

 

―――松は、毎年古い葉と新しい葉とが 交代してはいるのですが、

 

表面的には、古今の色なく、千年の常盤(ときわ)の緑を保ち、一様であります。

 

 

即ち、表面に平等が出て、裏面に差別がかくされているわけです。

 

 

また竹は、

 

上下のによって 判然とした区別の相を現わしていますが、

 

それは もともと同じ一本の竹の中でのことです。

 

 

即ち、表面に差別が出て、裏面に平等がかくされているわけです。

 

 

このように、

 

平等といった場合には、その裏に差別があり、

 

差別といった場合には、その裏に平等があるのです。

 

 

別言すれば、

 

差別に裏付けされた平等

 

平等に裏付けされた差別であってこそ、

 

真の平等であり 差別なのです。

 

 

 


人間の平等の面だけを主張して 

 

男女・老若の差別を無視し、

 

 

また逆に貧富・上下の差別だけを認めて

 

人間としての平等を認めないのは、

 

 

ともに物事の一面しかみないもので 誤った意見です。

 

 

平等でありながら そのままで差別歴然

 

差別歴然でありながら 一味平等

 

 

平等即差別・差別即平等―――

 

 

雨あられ雪や氷と へだつれど

 

とくれば同じ 谷川の水

 

という古歌があるが、

 

これは、この間の消息をうたったものです。

 

 

そして

 

松に古今の色無し」で平等一色の面を、

 

「竹の上下の節有り」で差別歴然の面をうたい、

 

 

全体として平等即差別・差別即平等の真理を表現しているのです。

 

 

 


近年、男女・親子・師弟・先輩後輩などの 見境(みさかい)のない平等一辺倒の思想が、

 

民主主義の名において流行しているようにみえますが、

 

真の民主主義とは 決してそのようなものではなく、

 

それは民主主義のはきちがえです。

 

 

このような悪平等の傾向に対する 反省の意味でも、

 

この句を よく玩味していただければと思います。

 


令和 3年 8月 1日              

        自然宗佛國寺 開山  こくけん もくらい 合掌


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円