7月の言葉「自由」



自 由



自 由(みずか)らに()る)


自由というのが、

 

あまりよく理解されていないような気がします。

 

何故なら、

 

明治近代化以降、とくに敗戦後、

 

自由の風潮にのって、

 

言論・出版・表現の自由が声高に叫ばれるようになり、

 

ちょっとした問題が起きると、

 

すぐ何々の自由が犯された、などと大騒ぎする。

 

 

また、

 

私たちの行動や意見も自由で、これは結構なことだが、

 

その中身が大切ではないか と思うからです。


国語辞典を引くと、

 

「自由とは、心のまま、思いのまま」などとあるが、

 

本当に、思いのままの行為をして 自由になるのだろうか。

 

 

自由」((みずか)らに()る)

 

 

つまり、由るべき自分があるわけで、

 

その自分が エゴを振り回す自分なら、

 

他人の自由とぶつかることは眼に見えていて、

 

それは不自由です。

 

自由とは、エゴを抑制(よくせい)した 自分に()ことです、


ところが、

 

この頃の自由は、

 

そのような根源的主体の 自覚に由るものではなく、

 

衝動的な、あるいは動物的な欲望のままに振る舞う わがまま勝手であって、

 

実は 自分の欲望に屈伏し、

 

それに引きずりまわされているものだ といってもよい。

 

 

一見、自由そうで、本当はかえって不自由なのです。

 

断じて 自らに由るものとはいえない。

 

 

たとえ 外的な圧力や束縛から解放されているとしても、

 

内なる欲望に束縛されているものは 

 

真の自由人ではない。

 

 

真の自由

 

個としての立場に 固執しての

 

自己主張によって

 

得られるものでは、断じてない。


「いのちの森」前の渓流


自由―――仏教語辞典には、

 

「自らに由る」「自己に(もと)づく」の意で、

 

独立自存、それ自身において存する。

 

自己の主体性 を 堅持する。

 

 

(めい)(じょう)妄執(もうしゅう)から脱して、

 

自主的行動するなどの 積極的な意味を持つとあります。

 

 

ここでの課題は、

 

その二つのうちの 自由についてであるが、

 

その求め方を見ると

 

東洋西洋とでは 全くちがうようです。

 

 

極めて大まかにいえば、

 

西洋では 主としてに向って求め

 

東洋では 内面的に追求してきた といってよいかと思います。

 

そこで、

 

明治中期、鎌倉円覚寺の北川洪川禅師、釈宗演禅師について参禅。

 

欧米に渡り、英文で仏教、特にを紹介し、

 

東西の思想・文化の交流に大きく貢献された

 

鈴木大拙居士が、

 

機会あるごとに自由の意味について、語り、書いたりしておられるので、

 

それを要約してお伝えします。(以下青字


鈴 木 大 拙 居士


  自由という文字は、

 

東洋の特産物で 西洋的考え方ではない。

 

西洋思想が潮のごとく輸入された明治時代、

 

freedom(フリーダム)‘(束縛・制限のないこと)や

 

Liberty(リバティ)(解放、権利)に対する訳語が見つからないので、

 

その頃の学者たちが、

 

仏教の語である「自由」を持って来て、

 

それに当てはじめた。

 

それが(もと)となって、

 

今では自由を フリーダムやリバティに該当するものときめてしまった。

 

西洋のリバティやフリーダムには、

 

自由の意味はなくて

 

政治的特権階級からの束縛または牽制から 解放されるの意味だけである。

 

 

それは否定性をもっていて、

 

東洋的の意味と大いに相違する。

 

自由は、

 

その字のごとく「」が「」になっている。

 

 

抑圧も牽制も何もない、

 

自ら」または「自ずから」出てくるので、

 

他から手の出しようがない という意味である。

 

自由は 元来政治的意義は少しもない。

 

 

自己が本来具有している天地自然の理法そのものが、

 

他から何らの指図もなく、

 

制裁もなく、自ずから出るままの働き

 

これを自由というのである。

 

 

そこで、東洋的自由と西洋的自由の 差異について 一言しておく必要がある。

 

東洋、ことに日本で、

 

自由の字の として使われるのは、仏教であった。

 

 

西洋的自由の消極的、対峙的、相関的なものに対して、

 

仏教、とくににあっては、

 

自由は 絶対的に解せられ、

 

政治よりも 存在論的意味を持つのである。

 

 

西洋では、

 

政治的特権階級の束縛から 離脱するのを自由と考えてきた。

 

何らかにつけ、他から、外から加えられる、制圧的、限定的なものから解放されるという、

 

その点を強調してきた。

 

 

それ故、自由には、

 

からする自己本来具有の 自由創造的なものに重きをおかないで、

 

客観的なもの、外来的なものを退(しりぞ)けんとする

 

消極的考え方・働き方に重点をおいてきた。

 

 

それ故、

 

自由のには 自ずからなるものという考えが、少しもはいっていないのである。

 

 

積極的自主性、本具的自動的創造性なるものが、

 

少しも考えられていない。

 

 

西洋的なものには、

 

消極的、他動的抵抗とか逆対というものが、中心となって出ている。

 

 

 「自由」ということは、

 

他から離脱することではく、

 

(みずか)(しゅ)となることである。

 

自分 が 自分になること

つまり禪者のいう随処(ずいしょ)(しゅ)()る」で、

 

他のものと関係なしに、

 

このものが このままに在る という意味だ。

 

 

この「自由」という東洋の字に

 

リバティやフリーダムをあてはめた学者は、

 

古典から 深く考えず仏教語をあえたにすぎない。

 

 

ともかく随処に主と作る以外に、

 

自由」はありえないと思う―――

と述べておられます。

 


随処に 主と作る


臨済義玄禅師


―――臨済(りんざい)()(げん)禅師の言行録である『臨済録』(示衆四)に

 

随処(ずいしょ)(しゅ)()れば、()(ところ)(みな)(しん)なり」という有名な句がります、

 

 

「随処」とは、その時、その場、

 

「主」は「主人公(人々に本来具っている仏性=本来の自己)のことです。

 

 

その時、その場、如何なる状況下にあっても、

 

人間だれもが本来もっている 主人公 を確りと自覚して、

 

客観的状況に束縛されるのではなく、

 

その状況の自由なる主人公となって、

 

すべてを自由自在に使いこなしていく。

 

 

そうすれば、その時、その場が、

 

そのまま真実(ほとけ)の妙境だ という意味です。

 

 

従って、「随処に主と作る」ということは、

 

自分を 状況に埋没させることではなく、

 

自分から 積極的に状況を転じて

 

自由自在に 使いこなしていくことのできる 主体性を持つことが大切だということです。

 

そういう自由自在な主体性ならば、

 

環境の方が順応せざるをえないでしょう。

 

 

私たちは日常生活の中で、外界のいろいろなものにとらわれ、左右されて、

 

主人公を 見失っていることが多い と思います。

 

 

たとえば、貴賤貧富・利害得失・美醜好悪・順境逆境など、

 

さまざまな客観界の(わざわい)にまきこまれています。

 

 

使うべきお金にかえって使われているなどもその一例です。

 

 

そこで、私は、日々、日常的自己 と 本質的自己主人公と自問自答しながら、

 

主人公を 忘失しないように心掛けています。

 


自問自答



―――中国唐末の瑞巌寺の師彦(しげん)禅師は、毎日、岩の上で坐禅して、

 

自分で 自分に対して大きな声で

 

オーイ、主人公と呼びかけ、

 

同じく 自分ではいと返事する。

 

 

さらに 自分に対して

 

しっかり目を覚ましているかはい

 

いつ、いかなるときにも、人にだまされるなよはい

 

 

自問自答して日課とし、

 

それ以外、一生涯、一言の説法もしなかったということです。

 

 

自ら主人公に成り切って 

 

自分のことを主人公と呼び、

 

そして、自ら主人公に成り切って 「はい」と返事する。

 

 

この一見、馬鹿げたことのなかに 

 

正念相続の尊い姿があり、

 

私たちに対する 親切な教訓があるのです。

 


令和 3年 7月 1日              

        自然宗佛國寺 開山  こくけん もくらい 合掌


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円