5月の言葉「縁起」



縁 起(えんぎ)



縁起とは


縁起とは、

因縁(いんねん)生起(しょうき)の略した語で

 

仏法(釈尊の人間教育学)の根本教説です。

 

 


ところが、

 

日常、私たちは「縁起がよい」とか「縁起が悪い」とか

 

「縁起を担ぐ」とか「因縁をつける」などのように、

 

間違った解釈をつけて

 

語ることがしばしばあります。


縁起や因縁 の 本来の意味


しかし

仏法で使われている 縁起や因縁の本来の意味を考えると、

 

明らかに誤用です。

 

 

縁起や因縁は、

 

善し悪しとは離れた 事象の本質を示した言葉です。

 

 

また、「○○寺縁起」などのように

 

「起こったいわれ」「由来」の意味で

 

「縁起」という言葉が用いられることもありますが、

 

本来の縁起とは 異なったものです。

 


縁起 の 本来の意味


仏法は、人間が人生、社会において

 

「いかにあるか」「いかにあるべきか」を説く教えです。

 

 

したがって仏法は、

 

人間存在のあり方あるべき姿を問う、

 

広い意味における人間学といえます。

 

 

 

「いかにあるか」「いかにあるべきか」という問題を、

 

仏法では 縁起の道理 として説き、

 

この道理

 

(ダンマ、ダルマ)といいます。

 



仏法を説く 人間学 と先に述べましたが、

 

このとは、

 

もともとある特定の宗教 や 信者を対象に説かれたものではありません。

 

 

とは、

 

もともとインド語で「ダンマ」「ダルマ」といい、

 

宇宙の真理自然の理法 世の中の成り立ちなどの原理、法則を指す

 

広い意味を持つ言葉です。

 


仏法の「法」の中心である縁起観は


仏法の中心である縁起観

()りて()こることという思想です。

 

 

「縁りて」とは、条件によってということであり、

 

「起こること」とは起こる道理ということです。

 

 

したがって、縁起とは種々の条件によって 現象が起こる 起こり方の原理

 

ということで、

 

現象の相互依存の関係を指すものです。



たとえば


たとえば、

 

(あみ)の目が 互いにつながりあって 網を作っているように、

すべてのものは、つながりあってできています。


一つの網の目が、

  それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りです。

 

網の目は、

  ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれます。

 

 

網の目は、

  それぞれ、ほかの網が成り立つために、役立っているのです。

 


すべてのものは 互いに縁りあって存在する


すべてのものは(たが)いに()りあって存在する―――

 

  人間世界の現実は

 

この通りでありながら、

 

人間、否、自分の思いはこの事実をなかなか自覚できず、

 

七十歳になった頃から

 

でわが身に この事実を引き受けられるようになり、

 

八十歳にして 全身心で 成る程 と了得(りょうとく)できました。


縁起 の 教えるもの


釈尊が 縁起を覚られた 成道の地 

(ブッダガヤー/インド)


釈尊は 菩提樹下で縁起の道理をさとって

 

仏陀」(真理に目覚めた人。覚者。)となられました。

 

 

縁起とは、

 

先に述べたように因縁生起の略で、

 

事象一切は によって生まれ起こり、

 

が 和合によって 流れ動いてやまない、

 

という真理をあらわしています。


とは原因、(たね)のことで、事象が起こるもと。

 

その種に、外からの

 

別の言葉でいうと補助的条件、

 

それが さまざまに組み合わさり、働きかけあって

 

(結果)」を生じさせる作用のことで、

 

因縁果の法といわれます。

 

 


「因縁果の法(真理)」は


「因縁果の法(真理)」

 

人間に限らず、

 

すべての事象が 生起、消滅する原理です。

 

 

草木国土、山河大地、森羅万象等、宇宙間に数限りなく存在する

 

一切の事象が起きる原理を、

 

キリスト教の『旧約聖書』では、

 

 ()物主としていますが

 

 仏法では

 

 創造の造物主たてません


()物主英語GOD(ゴッド)。キリシタン用語Deus(デウス)のこと。

 

ヘボン式ローマ字創始者ジェームス・カーチス・ヘボン(アメリカ長老会宣教師)が

 

『聖書』(明治5年刊行)の日本語への翻訳を行い

 

ゴッド(デウス)を「神」誤訳

 

 

それを日本人は「カミと読み、

 

日本人の宗教観念、神観念の混乱の起因になっている。

 


造物主の創造ではなく、


すべての事象は造物(ゴッ)()の創造ではなく、

 

起きるべき原因があって、

 

それぞれの事象となる結果が 生まれるとするのが、

 

因果観です。

 

 

つまり、

 

にはたらきかけて、を変えるのが、(きっかけ・条件)です。

 

または,の力がなくては結果を生じられません。

 

 

はこのような大きな機能があるので、を合わせて、

 

因縁から すべての事象は起きるから

 

縁起(縁から起きる)」とも

 

縁生(えんしょう)(縁から生じる)」ともいいます。

 



たとえば、蓮の実は、

 

成長すれば大きな蓮に育つですが、

 

机の上に置いたのでは、いつまでも発芽できません。

 

 

 土におろすきっかけや、陽光・水・肥料や栽培などの

 

の 蓮の実に機能はたらきかけて、

 

はじめて蓮の花が咲き、(みの)り蓮に成長するのですから、

 

がどんなに大事であるかが、この例だけでもよくわかると思います。

 


これを人の場合についていうと、

 

人は家柄、生まれなど(原因)によって

 

その人の価値、あるいは貴賤が決まるのでなくて、

 

 

その人の行い、環境(補助的条件=)によって決まるということです。

 

 

この縁起の法によって 世界を、社会を、人間を見ることを

 

仏法では(しょう)(けん)といいます。

 


正しいものの見方、考え方とは、

 

すべてのものを

 

縁起の法

 

照らして見ることであり、考えることであります。


縁起を 見るものは を見る

縁起が分かれば法が分る

 

を見るものは われ(仏陀)見る

 

法が分れば 仏陀(われ)というものが分かる  『阿含経』


令和 3年 5月 1日              

        自然宗佛國寺 開山  こくけん もくらい 合掌


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円