2月「知足」




知 足( 足ることを知る)


吾唯知足(われ、ただ足ることを知る)

―――私たち人間は、常に向上心を起こし、

 


低きより高きに上り、小より大に 進む

志気と 勇気を 備えなければなりませんが、

 

 

同時に、

 

常に己の分限を知って、

 

足ることを知ることが肝要であります。


釈尊が、

 

臨終

 

後世の人々のために説きのこされた『(ゆい)(きょう)(ぎょう)』には、

 

 

足ることを知る者は、

 

貧困であっても、

 

心が広く ゆったりとして安らかであるが、

 

足ることを知らない者

 

富裕であっても、

 

心が貪欲に満ちて

 

常に不安定な状態にある。

 


知足の者 不知足の者 とを比べ、

 

実に 知足の者 は 富楽安穏である

 

 

という意味のことが 述べられています。

 

 


足ることを知る とは、


 

常に自分というものの 存在立場 わきまえて満足することです。

 

 

私たちの苦しみや悩みは、

 

すべてによって 生じてくるもので、

 

その

 

満足することを 知らないために起こってくるのです。

 

 

というものを 完全に否定することは 人間にはできないために、

 

欲望を 最低限度に自制して (むさぼ)らない。

 

 

それがおだやかに生きることになります。

 


知足というと、


いかにも 現状に満足させようとする、

 

きわめて 消極的なあきらめ主義かのように 思われ、

 

小さい自分に甘んじてしまっては 進歩がないといわれます。

 

 

しかし、知足の法は、今の状態に甘んじてよい ということではありません。

 

 

今の状態に満足し、その満足足掛かりとして、

 

より 飛躍せよ、ということを意味しています。

 


生活 を していくうえで、


さまざまな欲心にとらわれ、

 

もがく ということがなかったら、

 

 

今、取り組んでいる一事に 

 

満ち足りた心

 

精一杯に働かせて 処理することができます。

 

 

なぜなら、現に従事することに知足の思いが満ちきって、

 

真心を尽くしている時には、

 

ほかのいろいろなことに心を奪われ、

 

妄想をめぐらし、もがくことをしないからです。

 

 

問題は、

 

今、ここで、現実に直面している (おのれ)身構え、気構え、心構えなのです。

 

 

現状が 順逆いずれであるにせよ、余念、余事をさしはさむことなく、

 

只今、なすべきことに

 

全能力、全機能をあげて努力精進する、

 

 

これが仏法の知足の法であります。

 



天海僧正(慈眼大師)の道歌に、

 

(こと)()ば ()るにかせて (こと)()らず

 

()らで(こと)()る ()こそ(やす)けれ 

 

とありますが、

 

人間の欲望ほど限りのないものはありません。

 


手に入れば 入ったことで満足すればよいのに、


もっと欲しくなり、苦しみは大きくなります。

 

 

人生で 心を安らかにしようとすれば、

 

欲望を 適当なところでおさえることです。

 

 

足ることを知る者は、

 

いささかも

 

不平不満の心が起きないから、

 

心に落ちつきがあり、

 

さらに不安がありません。

 

「知足」 真に知る人こそが、

 

自分の力 を 最大限に発揮することができるのです。

 


吾唯知足(われ、ただ足ることを知る)を

 

座右の銘として、

 

心富む人生を送りたいものであります。

 


令和 3年 2月 1日              

        自然宗佛國寺 開山  こくけん もくらい 合掌


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円