12月の言葉(注意)




(ちゅう) () ((こころ)注ぐ)(そそぐ


(こころ)(そそ)というと、

 

何か大変むずかしい言葉のように聞こえますが、

 

よくその文字を見ると、私たちがふだんよくつかっている文字、

 

すなわち「注意」を 読みくだしたものだということがわかります。

 

 

「注意」とは、

 

一つのことに こころを注ぐこと、集中すること、

 

また気を配ることをいったり、あるいは一所懸命に努力することを意味します。

 

 

「危険、注意!」「事故、注意!」といった看板は、

 

私たちがふだんもっともよく目にするものです。

 

 

まさに、日常生活にとけ込んでいる言葉、それが「注意」です。

 

 

あまりにも日常よく用いる言葉なので、

 

ふだんは まったくといっていいほど気にもとめないものですが、

 

「注意」には 非常に奥深い意味が隠されています。


でも、ひとことに注意するといっても、なかなか思うようにはいきません。

 

母から「もっと注意深くなりなりなさい」といわれて育ってきましたが、

 

八十歳の老僧になっても、

 

これを実行しようとすると、なかなか容易なことではありません。


鳥窠道林禅師


そこで思い起こされるのが、中国・唐代の(ちょうか)(どう)(りん)禅師 と (はく)楽天(らくてん)との問答です。

 

中国・杭州のしん望山ぼうさんに 道林 という 声望の高い禅僧がおられた。

 

この和尚は、その資格があるのに大寺・名刹に住することなく、

 

山中の大きな松に板を渡して、禪床とし、

 

いつもそこで坐禅をしているという風変りな方であった。

 

 

それで、時の人は、和尚と呼んでいました。

 


その頃白楽天が 杭州の刺史(しし)(知事)となって赴任してきました。

 

白楽天は 香山居士と号して 仏法の真摯な帰依者であったから、

 

道林和尚 のことを聞くや さっそく訪問して、

 

「如何なるか 是れ 仏法の大意」仏法のギリギリのところは、どういうものですか)と問うと、 

 


道林和尚 は 言下に、

諸々(もろもろ)(あく)()すことなく、諸々(もろもろ)(ぜん)(おこな)い、

 

(みずか)らその(こころ)(きよ)くする、これが諸仏(しょぶつ)(おし)えである 

 

と答えました。


白楽天は、何か深遠な教理でも聞けるものと期待していただけに、

 

案に相違した

 

この平凡で わかりきった垂示(すいじ)(禅宗で、師家が修行者に教え示すこと)に、

 

いささか憤然(ふんぜん)として、


白 楽 天


仏法の真義が そんな平凡なものであるならば、

 

 何も禅師などの所に 足を運んで聞く必要はございません。

 

その程度のことなら 三歳の童子 でも知っておりますよ

 

と反問すると、


和尚

 

三歳の童子も、これを知るといえども、八十の老翁も なお行じ難し」

 

 

ただ言うだけなら 三歳の童子でもできるだろうが、

 

いざ実行となると、

 

世の中のあらゆる経験をつみ、あらゆる学識をきわめ尽くした

 

八十の老翁でも難しいことだよ―――と諭されました。

 


これには、さすがの白楽天も 返す言葉もなく、

 

以後、道林和尚 の教導をうけた と伝えられています。


たしかに、わかっているけれども実行することは難しい

 

―――などということは よくあることです。

 

 

「注意」するということも その一つでしょう。


手作り山道

(一つ一つ石を手で運んで 心を込めて造ります / いのちの森)


ついうっかり 注意(おこた)ったがために、

 

大変な事故を 招いたりすることが よくあります。

 

 

私も 山作務(山仕事)をしているとき、

 

何かの拍子で気がぬけ、こころがゆるむと、

 

注意力が散漫して事故をおこし、怪我をすることがあります。

 

 

これは、その時、その場の仕事に

 

    (こころ)(そそ)ぎ、真心を込めて

 

       作業をしていなかったために起きた事故です。

 

 

それで、その後は、常に 正しい反省 と 注意力をもって、

 

その(おもい)を 失うことのないよう心がけながら、

 

八十歳の山僧の体力にあわせながら 作務 に励んでいます。

 


いまここに (こころ)(そそ)ぎ 生きぬかん

 

       限りある身の 力つくして 

 


令和 2年 12月 1日              

        自然宗佛國寺 開山  こくけん もくらい 合掌


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円


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