9月の言葉



(こう)(げつ)()らし松風(しょうふう)()く 

(えい)()
(せい)(しょう)なんの所為(しょい)



禅宗の六祖のう禅師(六三八~七一三)の法を嗣いだ 

永嘉玄覚禅師(六六五~七一三)の著『しょう道歌どうか』の中にある句。

 

 

皓々(こうこう)と江上を照らし、その月影川面(かわも)に映っている。

 

さわやかな風が吹き来り、松の梢が颯々と妙なる楽を奏している。

 

この清涼きわまりない永夜の風光は、

いったい何のために だれがだれのために演出してくれたのであろうか―――

 

 

これがこの二句の一通りの意味であります。


然し、これは「江月照らし松風吹く」に限ったことではありません。

 

に成れば百花繚乱(りょうらん)と咲き、

は炎天下に(せみ)時雨(しぐれ)をふらし、

には千草に(すだ)く虫の声をきき、また万山錦をかざり、

になれば白雪皚々(がいがい)として山頂を被い、寒風枯林に吟ずるという有様で、

 

それぞれに風趣(ふうしゅ)があります。


しかも、四季の円環・日月星辰ないし昼夜の運行・万物の栄枯には、

 

整然として一点の乱れもない。

 


だが、これはそもそも何物が(しか)らしめているのであろうか。

 

この整然とした万象の運行、しかもその間の無限の風趣

 

これは何物の所為なのであろうか。

 

 

然し、 だれのためにという自然にあるはずがない。

 

 

心無(こころな)くして、所作を(あら)わす これを無心というのでしょう。

 


鹿児島坊津町秋目浦から山陽道、北陸道を経て東京まで2,000㎞行脚(徒歩)

(平成24年4月29日~7月23日)


全国行脚中の歌



長良川 今宵(こよい)の宿は 橋の下
 

川面(かわも)にうつる 月を友とし

 


月 は 川の水 に 自分の姿を映してもらいたいと思って、空に輝いているのではない。

 

また 川の水 も、きれいに輝いている  を映してあげようと思って映しているわけでもない。

 

 

 も 水 も たがいに無心です。

 

 

無心なものが 無心なものに 無心に その姿を映している。

 

 

その作為のない、自然の姿自己をとけこませて無心の心境を味わう。

 

 

ここに行脚の妙味があります。

 


 私たちに、があり感覚がある以上、いろんなことが  に映ってきます。

 

 

たとえ映っても、ちょうど  の関係のように、

 

映ったら映ったまま、消えたら消えたまま、

 

 

そこになんらのとらわれもない

 

 

なんのこだわりもない。

 

 

そういう 水 月 のごとき 自由自在の境地 にドッシリと腰を落ち着け、

 

そこから事を行うことが肝要であります。

 


現代の人々は、自然の美しさ観賞するだけで、 満足し

 

「何物が然らしめているか」という疑問を抱かないのが 一般の傾向ではないかと思います。

 

 

然し、それでは、自然と人生の実相を知り、その風趣を味わうことにはならない。

 

 

「何の所為(しょい)ぞ」という大疑団の解決を求め、

 

自分の肉体に宿る目に見えぬ 形なき自然の霊妙不可思議な いのちのはたらき を発見し把得し、

 

 

この大自然の脈動 と その脈動を一つ にして

 

無作(むさ)無心に生きる境涯にまでいたって、

 

はじめて 人生を味到し、

 

自然の美 をよく味わうことができるのであります。

 


目に見えぬ、形なき不思議ないのち、

 

そのいのちにつながる、

 

私こそ不思議なる。


令和元年 9月 1日

            自然宗佛國寺     開山  愚谷軒 黙雷


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年の修行から お伝えしています。

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載

 

皆様の「いいね!」や「シェア」が、著者の大なる励みとなっており、

ありがたく感謝合掌しております  住持職:釈 妙円


#江月照らし松風吹く #永夜の清宵なんの所為ぞ #百花繚乱と咲き #昼夜の運行 #万物の栄枯 #万象の運行 #無心 #全国行脚中の歌 #行脚の妙味 #水と月の関係 #なんのこだわりもない #自由自在の境地 #自然と人生の実相 #いのちのはたらき #無作むさ無心に生きる境涯 #不思議ないのち #愚谷軒黙雷 #自然宗佛國寺