7月の言葉


動中(どうちゅう)工夫(くふう)は 静中(じょうちゅう)(まさ)ること百千(ひゃくせん)(おく)(ばい)




この句は、 白隠禅師の『遠羅天(おらで)(がま)』の上巻「答鍋島(こたえるなべしま)摂州候(せっしゅうこう)近侍書(きんじしょ)」に出てくる句です。

 

この上巻は、延享えんきょう五年(一七四八)に鍋島摂津守すけなおに答えたもので、

 

禅の修行法内観法(白隠が白幽子に伝授された健康法)について述べ、


(こと)動中の工夫を説いたものです。


禅の修行というと、閑静な禅堂で坐禅することだと思いがちですが、

 

静中の工夫よりも、日常生活全体を修行の場としていくこと――― 動中の工夫 ―――の方が、

 

より重要であるという意味です。

 

何をやるのも日常の行為のすべて、

 

それが禅の修行であり、 また仏道の実践なのです。


白隠禅師の画作「江戸時代仏画」(米インディアナポリス美術館所蔵)


白隠は、

 

日常生活の真っ只中における坐禅でないと、 いざという時に何の役にも立たないのではないか。

 

自分は何も静中の工夫、つまり静かに坐禅することが悪いなどというつもりはない。

 

ただ、静かなのをよいこととして、俗塵をさけることがよくない――― といっておられるのです。

 

 

然し、動中の工夫というものは、なかなか容易なことではない。

 

何故か。

 

それはこうじん万丈ばんじょう・利害得失の渦まく娑婆世界での渡世のむつかしさは、

 

山や川の険阻にあるのではなく、

 

常に反復する人間感情の複雑さにある。

 

 

 

だから、この濁世(じょくせ)の中で「真実の自己」(仏性)を見失うことなく、

 

日々、 働き生きていくことは生半可なことではない。

 

 

ところが静寂主義的な坐禅や机上の学問ばかりしていると、

 

いざ日常生活の中に入ると何の役にも立たぬばかりか、

 

かえって少しのことにも動転して臆病になったり、場合によっては卑怯ひきょうなこともしかねない。

 


(ぎょう)もまた(ぜん)()もまた(ぜん)語黙(ごもく)動静(どうじょう)(たい)安然(あんねん   ようげんかく禅師『しょう道歌どうか』)

 

 

一般に禅の修行は、世俗から離れた静かな禅堂で坐禅という静的な面に修行の本質があると思われがちですが

 

「行」⋯― 歩く、行く、行動することもです。

 

「坐」⋯― 坐禅しているときもです。

 

 

 

さらに「語黙動静」

 

つまり、人と話しをしているとき、黙っているとき、体を動かしているとき、休んでいるとき、

 

それら日常のすべてであり、でないものはない。

 

 

何も坐禅をしているところだけが、禅定の世界ではない。

 

こういう限られた世界があってはいけない。

 

 

ふだん歩いているときも、動いているときも、黙っているときでも、

 

しゃべっているときでも禅定の世界でなけらばならないし、

 

これが真の禅である。

 


白隠禅師に、武士が戦場では坐禅ができないといった。

 

そのとき白隠は、武士に馬上禅をすすめた。

 

 

戦場を馬に乗って駆け巡っているそんな中にもはあるのだ。

 

 

干戈(かんか)(まじ)える兵馬倥偬(へいばこうそう)(かん)にあろうと坐禅をしているときと同じ心境にならなければならぬ

―――これが馬上禅です。

 

 

たとえば、会社で仕事しているときも、乗り物に乗っているときでも、

 

すべての行為の中に禅の道が開かれています。

 

 

 つまり、私たちの生活のすべてが、「禅」を行っていると自覚できれば、

 

「体安然」で心身ともに落ち着いた安心の境地に到ることができます。

 


禅門においては、

 

()()、二坐禅、三(かん)(きん)(経文を黙読すること)といわれるように、

 

作務(労働)そのものが重視されています。

 

 

作務、即ち、体を動かして働くことが、であり修行であって、仏作仏(ぶっさぶつ)(ぎょう)なのです。

 

 

その作務の精神を忘れた単なる労働ではないのです。

 

愚谷軒 黙雷(78歳) の 山 作 務 ーいのちの森ー


禅門独自の学道の規範を確立した 百丈(ひゃくじょう)()(かい)禅師は、八十歳になっても日々作務を続けていました。

 

あるとき、老体の師の身体を案じた弟子たちが、師に作務をさせまいとして道具をかくしたところ、

 

百丈作務を余儀なく休んだものの 三日も坐ったままで食事をとりませんでした。

 

 

その理由を尋ねますと

 

 「一日()さざれば、一日食らわず」と一言答えました。

 

 

 

弟子たちは大いに恥じて、その非を謝り、道具を出すと、

 

百丈はさっそく作務に出て、食事をとったという。

 

 

(老い、病い、死を超える老僧黙雷の禅生活「一日不作、一日不食」参照)

 


「一日作ざれば、一日食らわず」

 

世間では「働かざるものは食うべからず」と解している人が多いようですが、百丈(げん)とは異質なものといえます、

 

 

百丈の言葉は仏作仏(ぶっさぶつ)(ぎょう)ができないために、食べることを自制しているのであって

 

「食うべからず」という強制的・命令的なものではないのです。

 

 

「動中の工夫は静中の工夫に勝る」白隠もいっているように、禅門では働くことを重要視しています。

 

 

働くといってもただ働いているのではなく、

 

いている中を求め、

 

常に工夫しているのが作務の精神です。

 

くことそのものの中に 悟りがあるのです。

 




忙しい仕事や(いや)な仕事に追われる人は、仕事から逃れたいという気持ちが生じたとき、

 

それは工夫放棄することになります。

 

 

仕事にどう取り組み、どう片付けるか、前向きに仕事をとらえると、そこに工夫が生まれる。

 

この仕事に立ち向かう工夫こそが、働く喜びとなり、生きがいとなります。

 


追録

―――「働く」という字自体、中国で生まれた文字ではない。

 

日本製の文字、つまり国字である。

 

一般に国字には「はたけ」「椿つばき」「つじ」など、ほとんど訓読みだけで音読みはない。

 

しかしこの「働」という字はハタラク」という訓のほかに「ドウ」という音読みを持つ。

 

いかに日本人がこの国字を重要視しているかわかろうというものだ。

 

 

中国で「働く」という言葉は「勤」「労」「務」などの漢字をあてる。

 

どの字も義務的にいやいやしかたなく、という語感がただよう。

 

 

それに対し、「働く」という字は、人がいきいき動いている、という語感がある。

 

 

さて、この「働く」は英語で言うとwork(ワーク)になるが、

 

日本語の「働く」の方が語義が狭く、使い方がやかましい。

 

 

例えば机に向かって勉強しても、英語ではworkだが、日本人はそういうものを「働く」とは言わない。

 

「働く」は自分のために何かすることではなく、何かほかの人の利益になること‐‐‐‐が働くである。

 

(日本語学者 金田一春彦著『日本語を反省してみませんか』一四五頁、角川書店)

 

 

令和元年 7月 1日

            自然宗佛國寺     開山  愚谷軒 黙雷


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年の修行からお伝えしています。

下記FB:自然宗佛國寺から、毎月1日掲載 

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ありがたく感謝合掌しております  住持職:釈 妙円


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