渓声便是広長舌 山色豈非清浄身
渓声 便ち 是れ 広長舌
山色豈清浄身に非ざらんや
この句は、
渓川の響きはこれ仏の説法、山の色これ仏の妙色身。
蘇東波が、悟った境地を詩にうたいあげ
師の照覚常総禅師に呈したもの。
蘇東坡(1036~1101)は、中国北宋時代の有名な詩人ですが、
彼の詩の中に皇帝を謗ったものがあると讒訴され、
五年におよぶ流謫生活の中で、禅に深く帰依し自己修養につとめました。
彼は減刑されて行動の自由を得るや、
廬山東林寺の照覚常総禅師(1025~1091)に参じました。
そのとき、
照覚和尚が「無情説法の話」という公案(参禅者に出す課題)を与えました。
この公案は、南陽慧忠国師(*~775)に始まったもので、
山川草木、障壁瓦礫のような情識のないもの(無情)も、
情識のある人間など感情を持つ一切の動物(有情)も
同じように説法をしているというのです。
つまり、無情―――山川草木、渓声松風のような心のはたらきのないものでも
途切れることなく法(一切万有に通じる理法)を説いている。
言い換えれば、
天地間のありとあらゆるもの一切(万法)は、
真如そのものであり、仏そのものであるから、
人が見る眼、聞く耳さえもてば、
ありとあらゆるものに、
常に仏を見、その仏の無言の説法をきくことができる―――ということです。
蘇 東 坡(北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』に纏められている。)
蘇東坡は、「無情説法の話」という問題を与えられたが、
彼にはなかなか解決がつきません。
木や石ころまでが法を説き、真理を説いてわれわれに聞かせてくれている。
昼夜なく、途切れることなく常に説法をしている。
それなのに私の耳には聞こえないのはなぜか。
東林寺に滞在の数日間、それこそ不眠不休でこの問題に取り組んだが、
やっぱりわからない。
そこで、蘇東坡は照覚和尚に暇を告げて旅立ちましたが、
道々なおも工夫を続け、やがて、渓谷にさしかかりました。
すると、その流れる水の音が、東坡の全身を打つが如くに聞こえたとたん、
豁然大悟し、無情説法を聞くことができました。
そして、その境地をうたいました。
渓声便ち是れ広長舌
山色豈清浄身に非ざらんや
夜来八万四千の偈
他日如何が人に挙似せん
・渓声便ち是れ広長舌―――川のせせらぎの音、
これすなわち仏の途切れることのない説法である。
・山色豈清浄身に非ざらんや―――山の青々とした緑の色、
これすなわち仏の姿に他ならないではないか。
無情説法しているとは このことです。
宮 川 の 清 流 (自然宗佛國寺 前)
峰の色 谷の響きも みなながら
わが釈迦牟尼の 声と姿と (道元禅師)
山の緑の色も、谷川のサラサラと響く音も、
みな釈迦牟尼仏の声と姿であると
受け取る眼と耳ができれば、「八万四千の偈」がおのずからわかってきます。
偈とは、仏法の真理をうたった詩のことで頌ともいいます。
・八万四千の偈―――山や渓声だけではない。
蝉や雀の声も、春の田に鳴く蛙の声も、庭に啼く鶯も、花が咲き散るのも、
軒先の雨だれの音も、山河大地森羅万象一切の存在がみんなこれ釈迦牟尼仏の説法です。
朝から晩まで、一日中仏の説法が聞こえないときはない。
・他日如何が人に挙似せん―――挙似は禅宗で古則・公案などを言葉で示すことをいいます。
渓声山色の説法を、これからどういうふうに説いて人に示し伝えたらよいだろうか。
この説法だけは筆舌で人に伝えることはできない ――と感激の心境をうたったのです。
煩悩は そのまま さとりの縁になる
渓声広長舌、山色清浄身の詩を味わいながら自分の心の内をみて、
自分が煩悩(自分の内から起こり漏れ出て、
自分自身を迷わし悩ませる我執我欲)の塊であると自覚できると、
八万四千の偈といっているのは、自分の煩悩をいっているのだと解することができました。
そして、渓声を釈迦牟尼仏の説法と聞き、
山の姿を清浄な仏の世界と見ることができる心境になってくると、
八万四千の煩悩は、
さとりの世界へといざなう八万四千の詩と見ることができるようになりました。
この心境をさらに深めたのは、日本三大渓谷・伊勢大杉谷の山居に籠って、
自己を自然に捨入し、
以て、自然の本性を自己の本性として立つ
自然随法(自然の理法にしたがって生きる)生活四年の実践でした。
雨の日は仏典、語録を読み、晴れの日は山作務で汗を流し、
山河大地森羅万象の説法を静かに聞き体で味わう。
渓 流 (自然宗佛國寺「いのちの森」前)
〈愚 歌〉
・宮川の水の流れは 清くして
先あらそわず 跡ものこさず
・谷の水 澄むも濁るも とらわれず
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自然のままに 無心にながるる
・渓声に河鹿の声が 相和する
|
自然のしらべに 法の声きく
山 作 務 一つ一つ手で整備(自然宗佛國寺「いのちの森」)
山河大地 森羅万象
悉く 是れ 自己なり
(夢窓疎石禅師)
令和元年 5月 1日
自然宗佛國寺 開山 愚谷軒 黙雷
自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年の修行からお伝えしています。
下記FB:自然宗佛國寺「今月の言葉」から、毎月1日掲載。
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