6)欲望を活かして善用する


6)欲望を活かして善用する


世俗的な人間の 

 

欲望を活かして 

 

善用する――― 

 

では、どうしたら 

苦悩の種となる 欲望を活かして 

 

善用することが出来るか。 

 

前号からのつづき

 

 

何か よい妙薬はあるのか?

 

あります――。

 


欲望に智慧の光をあてる


そこで、 

これから申し述べることは、

 

行脚55下座行(路上坐禅)50の体験から 

身体で摑んだもので、

 

理論理屈の世界ではありません。 

 

 

これは、 

 

紅塵万丈・利害得失の渦巻く娑婆世界で 

 

何とか まともに生きたいと願望し、 

 

俗世間にまみれた煩悩深き凡僧が、

 

あちらに頭をぶつけ、 

 

こちらに頭をぶつけながら 

 

体得した 

 

踏まれても

 

踏まれても

 

立ち上がってくる 

 

雑草禅ですから、 

 

 

 

頭ではなく、 

 

身体 

 

読んでいただければ 有り難く思います。 

いのちの森勧進21日間下座行(平成26年 東京池袋駅)


現代社会を観察すると、 

 

人間の欲望 

政治的、経済的、社会的に 開発しましたが、 

 

その欲望 

 

人間の知恵を離れて 

 

人間を つぶそうとしている 時代だといえます。 

 

 

私は、行脚、下座行を行じる中で、 

 

人間の欲望こそ 

 

生命活動の源泉であり、 

 

出発点であり、

 

 

生命と同じように 

 

尊いものであると捉えました。 

 


人間の欲望というものを、 

 

世の中の人たちが、重んずるようでいながら、 

 

その実は 

 

これを軽視し、侮蔑していることに対して、 

 

私は 強い疑念いだいてきました。 

 

 

ただ、 肝心な事は、 

 

欲望をそのまま放置せず 

 

 

人間の知恵で 

 

その欲望 

 

方向を与えなければならない――― 

 

 

その知恵人間に与えるもの、 

 

 

それが

 

「仏法」釈尊の人間教育学であります。 

 


 

とくに「禅」は、

 

 

人間の欲望を抑え殺すのではなく、

 

 

「仏法の智慧の光」

 

 

欲望の持つ 

 

エネルギーを活かし 

 

 

自己中心の 

 

利己的小欲から、

 

 

自利じり利他りた(自ら利益を得、他者をも利益すること) 

 

 

大欲だいよく(小欲を捨て、一切を放下して 自利利他の勝れたはたらきをしたいという願い)

 

に変革し、

 

 

自己を 最も人間らしく 生き抜こうとする 

 

人間に変えることにあります。

 


私が 身体で摑んだ 

 

禅的生活は、 

 

 

人間の欲望 

 

正当に理解し、 

 

正当に位置づけて、 

 

 

欲望 

 

人間の知恵コントロール下に置き、 

 

ますます欲望を開発し、 

 

 

最も 

 

生命力ある人間として、 

 

この世に生きさせる。 

 

 

 

即ち、紅塵万丈・利害得失の 渦巻く娑婆世界で、 

 

道端の雑草の如く

 

 

踏まれても 

踏まれても、 

 

己を見失うことなく蘇ってくる 

 

雑草禅であります。

 


真実の自己に生きる


現代社会は、

 

混乱の時代、 

 

価値喪失の時代、 

 

不透明な時代、 

 

不確実な時代だと、

 

いろいろいわれて久しくなりますが、 

 

 

この近未来さえも予測できない現代社会において、 

 

 

自己が 人間として生きるには、

 

どうしたらよいか。

 

 

どうあるべきか。 

 

その答えは、 

 

混乱の時代、価値喪失の時代だからこそ、

 

 

「真実の自己」(「自己の主人公」参照)

 


をとらえ、 

 

真実の自己に成り切って、  

 

生きることが、

 

 今日、 

 

最も必要なことだと思います。

 


特に 心が劣化して 

 

人間性喪失 現代社会の現代物質文明の中で、 

 

疎外されて生き続ける以外にない、 

 

多くの現代人にとって、

 

 

その疎外克服する道は、 

 

 

真実の自己―――

 

 

自己を発見し、

 

自己を開発し、

 

自己を確立して、

 

 

自己自身に価値を置き、 

 

その真実の自己に 徹し切って 生きるしかない。

 

 (「自己の主人公」参照) 

 

 

 

人間性不在の現代社会を、 

 

自己の足下に確りと捉え、

 

踏みしめる以外にない。 

 

 

その為にも、 

 

真実の自己とは何かを自覚し、 

 

 

 

その自己に 

 

最大最高の価値を置き、 

 

 

 

自己自身の判断、 

 

自己自身の命ずるところによって生きることが、 

 

 今日、最も必要なことだと思います。 

 

 

 

そのためには、 

 

自己の苦悩の本体 

 

 

即ち、 

 

「生きんとする欲望」 

 

 

確りと自覚し、 

 

 

 

そこから起こる 

 

諸々の欲望

 

自己のコントロール下置くことが

 

 緊要きんようであります。

 


他の動物と人間の違い


人間を一個の生物と見れば、

 

他の動物と同様の本能に支配されています。 

 

 

が、 

 

さらに一歩進めて、 

 

 

我が人生は 

 

くありたい

 

という目的論的な立場から、

 

 

理想生活

 

というものを考えると、 

 

 

人間は 

 

ただの食欲性欲の二大本能にかられて、 

 

動物的に動いている存在ではない。 

 

 

食と性の欲望をたさんとする以外に、 

 

私たちは なんらかの意味において、

 

 

現実以上のあるもの求めていると思います。

 


自然宗佛國寺の在る 日本三大渓谷・伊勢大杉谷は

 

山深く、

 

猿や鹿や猪、ときには熊も人里に出てきますが、

 

 

これらの動物は、食と性を満足すれば、 

 

それ以外、 

別に理想というものは無く、 

 

単にあるがままの存続を以て目的とし、 

 

人間のように 

 

理想生活の伸展を図ろうとする 

 

望みも努力もないように思われます。

 


ところが、私たち人間は、 

 

これに反して、

 

なんらかの理想を有し、

 

その理想を 

 

実現せんとして、

  

日々、努力し、

 

そこに 

 

「生きがい」

 

を感じています。

 

 


人間のトータルとして、 

 

意識するとしないとにかかわらず、 

 

人間は 

 

今日よりも明日、

 

明日よりも 将来に向って 

 

より良い生活を求め、 

 

より良い社会をつくりたい――― 

 

 

 

現在は「こうだが」、 

 

将来は「こうありたい」と、 

 

常に現実以上目標にして働き、

 

 

えず 

 

自己の向上発展を望んでやまない――― 

 

 

そこが 

 

他の動物と 人間の違いであります。 

 


生きがいのある生活


「生きがい」というと、 

 

何か抽象的で ばく然としていますが、 

 

 

ちまたの声を要約すると――― 

 

人々が生きがいや、 

 

生活の目当てとして 

 

大切に思っているものは、

 

 

       生活の充足――― 満足

 

  健康で家族や子供となごやかに、 

すごすという家庭生活志向的なもの。 

  

  収入などの直接生活の豊かさを求めるもの。

 

 

 

       自己実現、社会貢献

 

  仕事、家事、勉強など、 

   いわば、その人のおかれている本務、本分における

   自己実現を求めるもの。

 

 

 

          精神の充実感

  

  愛情、友情、精神、将来のことなど メンタルな面を大切にするもの。 

 

 

―――などなどがあげられます。

 

 

 

 

そして、これから言えることは、 

 

ごくありふれた 簡単な言葉ですが、

 

「満足生活志向」こそ、

 

生きがいの原動力になっていると思います。 

 


財産に浄、不浄なし


人とは現実と理想との

 

間における緊張なり

 

という名言がありますが、 

 

 

人の人たる所以ゆえんは、  

 

現実生活に満足し得ないで、 

 

不断に理想追求して行くところにあるといえます。 


では、理想生活 

 

即ち、満足生活というものは、

 

 

最初どのように現れてくるか――― 

 

 

これは人、様々で 一概にはそうとは言いきれませんが、

 

 

私の経験から言えることは、 

 

先ず、第一に財産欲でした。 

 

そして、財産が相当にできると、 

 

今度は 名誉欲方に 頭が向いて行きました。 

 

 


財産―――

 

財は、即ち、世間一切の資財、 

 

 

人間はこれによって 

 

自己を養い、家族を養うことができます。 

 

 

道端で 黙然大坐していると、 

 

よく 私は無所有主義者だ」、

 

財産の私有制度を否定すべきだという人に出会います。 

 

 

また、 

 

田舎暮らしのIターン青年の中には

 

家さえあれば 

 金は無くてもいい‐‐‐」という人がいますが、 

 

 

これは 現実生活で 所詮しょせんなし得ないことで、 

 

所有欲が 完全に無くなるのは、

 

棺桶かんおけに這入った時に、ようやく可能となる。

 

 

だから、息の通っているなまの人間には、

 

生きるために財産は必要であります。 

 

 

 

  「俺は金はいらん」、

 

 「財産は無くてもよい‐‐‐

 

という人は、本当にいらんかというと、 

 

 

実のところ 持ちたくても持てなかったから、  

そういっているまでのことで、 

 

持たとしたら 矢張り持ちたいのが、 

人間の本音だと思います。 

 


また、 

宗教家や詩人の中には、 

 

ややもすると 

 

財産を不浄のごとく 言われる方がいますが、

 

 

これが 不浄となるのは、 

 

所有者の 

 

心持ち如何によることで、 

 

 

財産その物が

 

不浄なのではありません。

 

 

浄、不浄も、 

 

みな 人間の心 

 

つくり出すものです。

 


浄になるも、不浄になるも、心しだい


  釈尊は、

 

利欲の念が燃え盛ると、 

 

 これが すなわち  灼熱しゃくねつ地獄じごくで、 

 

 とんあい(むさぼり愛着すること。執着)の念に溺れると

 

 たちまち 苦海に沈むことになる。

 

 

一念が 清浄しょうじょうであったならば、 

 

燃え盛る炎の中も 清冷の池となり、 

 

 

一念の迷いから覚めると、

 

 

船は迷っているがんから 

 

悟りを得た彼岸ひがんに到着する」

 

 

といっておられますが、 

 

 

 

一念の持ち方  

 

境界は たちまち変わってきます。 


世の中は 心ひとつの おきどころ 

 

楽も苦となり 苦も楽となる


物を活かすも

 

殺すも、

 

己の心次第です。

 

 

ですから、

 

財産そのものが

 

不浄なのではありません。

 

 

持つ心さえ 正しければ、

 

多く持っているに越した事はない。

 

 

しかし、

 

金銭は人間生活の手段であり、

 

 

世を渡る一種の道具ですから、

 

 

この本末を誤まってはならぬ―――

 

 

ここが大切なところであります。

 

 

これを 誤る

 

金銭に囚われ、

 

財産に縛られ、

 

自らも苦しみ

 

人様にもまた迷惑をかける事となります。

 

 

ですから、

 

財産の蓄積人生の第一義にと心得て、

 

 

そのために

 

義理も人情も顧みないという人は、

 

 

やがて、寂しい人生を送る結果を迎え

 

人間として恥ずかしいことだと思います。 

 

 


追 録


吾 唯 知 足

 

<われ、ただ足ることを知る>


知足を説く

 

 

若し、諸々の苦悩を脱せんと欲すれば

 

まさに知足を観ずべし。

 

 

知足の法は、

 

即ち

 

是れ()(らく)安穏(あんのん)の処なり。

 

 

知足の人は、

 

地上に臥すといえども、

 

なお安楽なりとす。

 

 

不知足の者は、

 

天堂に処すといえども

 

また(こころ)にかなわず

 

 

不知足の者は

 

富めりといえども、

 

しかも貧し

 

 

知足の人は

 

貧しといえども、

 

しかもめり。

 

 

不知足の者は

 

常に五欲のために()かれて、

 

知足の者の憐憫(れんみん)する所となる。

 

 

是れ知足と名づく―――と。

 

 

 

釈尊

 

最後に説きのこした教え『仏遺(ぶつゆい)(きょう)(ぎょう)』にあります。

 

 

これによると、

 

足るを知る者貧困であっても、

 

心が広くゆったりとして安らかであるが、

 

 

足るを知らない者富裕(ゆたか)であっても、

 

心が貪欲に満ちて常に不安状態にある。

 

 

 

知足の者と不知足の者をくらべて、

 

実に

 

知足の者 

 

富楽安穏であるとしています。

 


事足れば 足にまかせて 事足らず

若い頃の私は、

 

あれも欲しい これも欲しいと、

 

欲望が 入道雲のようにもくもくと湧き起こってきて、

 

 

欲望に振りまわされて あくせくと苦しんでいました。

 

 

そして、

 

いつしか

 

「真実の自己」を見失い

 

欲望が自分の心の支配者となり、

 

 

 

その結果、

 

甘言(かんげん)につられて事業に失敗し、

 

無一文の丸裸となり、人生のどん底に叩き落され

 

煩悩地獄

 

妄想苦海

 

七転八倒―――

 

 

 

これではならじと 一大奮起して、

 

自己の 根本的人間改造を決意し、

 

全国行脚七年有半

(昭和578月~平成元年12月迄)

 

を行じました。

 

 

 

詳しくは『和尚からの手紙 

 
 「行雲流水」行脚55年その1その2をご覧ください)


知足は 第一の富 なり(法句経204偈)

一笠一杖の乞食雲水として

 

全国各地を行脚するうちに

 

 

自然と、

 

事足れば 足るにまかせて 事足らず

 

足るで事足る 身こそ安けれ

 

 

の境地を味わうことができるようになりました。

 

 

足るを知る者は 身貧しくとも心富む。

 

得ることを貪る者は、 身富めども心貧し

 

 

<愚 歌>

禅寺の あるべき姿に 徹すれば

 

身まずしくとも  心ゆたかなり

 

 

平成30年5月19日

                自然宗佛國寺    開山 愚谷軒 黙雷  合掌

 

 


#欲望を活かして善用する #智慧の光 #行脚 #下座行 #身体で摑んだもの #娑婆世界 #まともに生きたい #雑草禅 #いのちの森 #生命活動の源泉 #釈尊の人間教育学 #禅 #智慧の光 #利己的小欲 #自利利他 #大欲 #禅的生活 #人間の知恵のコントロール下 #生命力ある人間 #真実の自己 #克服する道 #人間性不在 #最大最高の価値 #命ずるところ #生きんとする欲望 #かくありたい #理想生活 #自然宗佛國寺 #生きがい #向上発展 #愚谷軒黙雷