4)苦悩を超ゆる生き方



苦悩を超ゆる生き方


下座行(路上坐禅)50を行じて

 

身体で悟ったことは、

 

「自分を引っ括めて、 

 

 すべての人々が 

 

苦悩を抱えながら生きている」

 

という、 

 

ごく当たり前のことでした。 

 

 

そして同時に、

 

人々の苦悩 

 

我が事として 

捉えることが、 

 

やっとできるようになりました。 

 

 

 

道端に 

黙然大坐しながら、

 

ちまたの声をきき、 

 

思ったことは、 

 

人々の苦悩の種は 

至極しごく複雑で、

 

ここにこれを 

一々あげることはできませんが、

 

心の置き所ひとつで、 

 

 

苦悩 

 

自分を磨き上げる 

 

尊い試練になる 

 

ということでした。

 

 

 

だが、 

かって自分が 

人生のどん底で、

 

のたうち回っていた頃

 

自己中心の 

我利我利妄者だったので、

 

苦悩 

 

必ずしも 

自己練磨の機会だと 

 

捉えることは、 

なかなかできませんでした。

 

いのちの森21日間勧進下座行(平成21年8月 名古屋栄・三越百貨店前)


煩悩地獄・妄想苦海 

七転八倒して 

 

自殺を考えた時 

 

 

聖徳太子の 

勝鬘経義疏しょうまんきょうぎしょ第十 一諦いったいしょう 

 

「苦に楽想らくそう有り」(苦を楽と想う)の句に 

 

ハッと気が付きました。 

 

 

 

 =現在の苦悩はやがて幸福に通ずるもととなる―――

 

 

そうだ!

二度とない 

この人生を 

 

明るく楽しく生きて行こう  

 

と思った瞬間 

 

目が覚め 

正気にかえりました。 

 

 

そして、 

この娑婆世界の 

悪や不条理の存在を認めた上で、 

 

現実を 

よい方向を考え、

 

苦の種

 

仏法の智慧の光 

 

をあてて 

 

善用する 

 

コツを掴むことができるようになりました。

 

 


そこで、 

自分自身の経験からいえることは、 

 

悲観に囚われた時は、 

 

ちょっと眼を転じて

 

人生の楽しい方面を見てほしい――― 

 

  

 

「花のいのちはみじかくて、 

 

 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)

 

 

 と見ると、 

 

 

人生のすべてが 

悲観の種となります。

 


ところが、 

 

「花の散るのを 悲しむなかれ 

 

 やがて実を結び 

 

 明日の生命の準備をなしつつあり」

 

 

自然の生命 

 

はたらきを正見観察すれば、 

 

 

人生のすべてが明るくなり

 

楽観の種 

 

となります。

 


自分の心の置き所ひとつで 

 

人間じんかんいたところ青山せいざん

 

 (この世は、どこへ行っても、自分が生きるにふさわしい、

  青々として美しい山があるではないか)――― 

 

の心境を味わい 

 

楽しむことが 

 

できるようになると思います。

 


自分の経験からいえることは、

 

わがまま

利己中心の考え方 離れて

 

虚心坦懐きょしんたんかい 

人生を眺めて見ると、 

 

 

 

というように、

 

の方面よりも 

 

の方面が 

 

より多くあることに 

気付くと思います。 

 

 

 

例えば――― 

私たちは普通の場合、 

 

身体の

一般的な健康 

 

感謝せずに

 

喜ばないで

 

ちょっとした擦傷すりきず 

痛みをつらがったり 

 

 

また、 

商売が大体うまく運んでいるのに、

 

わずかな一時的な損失

心を腐らしたり

 

とかく些細ささい苦しみ事のために、

 

足下あしもとにある 

 

日常的 

 

楽しい有り難いこと 

 

忘れているところがあると思います。

 


人生、

 

  

 

いずれが多いかといえば、

 

もちろん 

 

のほうが多量にあります。 

 

 

ところが、 

生きていることが 

 

つらいと思い

 

物事を悪い方ばかりに考え、 

 

悲観的に見ると 

 

苦しい方面のみに囚われて、

 

 

 

楽しい方面を見逃してしまい

 

道がふさがれて

 

身動きがとれなくなります。

 


何を くよくよ 川端柳


人生は、 

いつの場合でも、

 

客観的に見れば、 

 

苦楽・善悪・有無・得失・貴賤・貧富・美醜びしゅう・愛憎・生死と、

 

 

すべて対立の存在ですから、

 

 

悲観的に見て行き出すと、 

 

人事一切何事を見ても、

 

苦しみの種ならざるは無し 

 

でありますが――― 

 

 

何をくよくよ川端柳

 

水の流れを見てくらす

 

 

あまりりきまず 

 

楽観的に物事を見て行くと 

 

案外と心にゆとりがでてきて、

 

 

何事も 

 

楽しみの種ならざるは無し 

 

となります。 

 

 

 

おおよそ、 

私たちの苦悩というものは、

 

何事によらず、 

ある一つの出来事に対して、

 

最早、 

いかんともなし難し

 

お思い込み、 

 

 

 

自分自身から 

 

勝手に進路をふさ 

 

あると思います。 

 

 


 

きゅうすればすなわへん

 

へんずればすなわつう(易経)

 

 何事も、

 

窮すれば 

 

必ず変化が生じ、 

 

 

変化が起これば 

 

必ず通じる道 

 

が生じてきます。 

 

 

ですから、 

窮した時は、

 

その時 

その場から 

 

逃げ出さず 

 

 

その時 

その場に 

 

成り切って 

 

 

窮して 窮して 窮し切れば

 

必ず道は開けます。

 

 

人生は 

 

決して八方はっぽうふさがりではありません。 

 

朝のこない夜はない―――

 


ここで 

少々横着な言い方だが、

 

苦しい時は、 

腹をドンと据えて 

 

図太く開き直り、

 

 

ちょっと視線を転じ 

人生を大観すると、 

 

幸福の分量のほうが多く 

 

運命開拓の道 

 

足下あしもとにあると気付くと思います。

 


月影の至らぬ里は なけれども 

 

眺むる人の 心にぞ澄む (法然聖人)

 

 

月影の至らぬ里はない―――

 

光明は 

生きとし生ける一切のものを、 

 

ことごとく 

平等にくまなく照らしています。

 

 

眺むる人の心にぞ澄む――― 

 

 

 眺むる 

 

ここが大切なところです。

 

 

 

光明は眺むる人にも、 

 

眺めない人にも、 

 

わけへだてなく 

 

照らしていますが、 

 

 

眺める人 

それに気付くし、

 

 

眺めない人 

そのことに気付かないままに 

 

一生を過ごす 

 

という違いがあります。

 


だが、 

この違い 

 

実に大きい。 

 

 

 

喜びにみたされて 

 

おかげさまでと

 

生きる一生か。 

 

 

そうでなくて過ごす 一生

 

 分かれ目となります。

 

 

 

生かされて 生きる喜び、 

 

 

照らされている

 

 

うれしさにみたされて 

 

 

生きる一生――― 

 

 

 

結局、

 

人生の幸・不幸は、 

 

自分自身の 

 

心の在り方で決まります。

 

 


青山元不動 白雲自去来


日本建築で 

座敷に設ける床の間 

 

本来、 

仏像をおまつりし、 

 

香、花、灯を供えて 

礼拝した所です。 

 

 

後になると 

仏像のかわりに、

 

仏語、 

あるいは

 

みて心が泰然、壮快になる 

 

花鳥画とか山水画が 

掛けられるようになりました。 

 

 

そうなると 

灯は必要なくなって、

 

かわりに香炉が置かれ、 

花だけが飾られるようになり、

 

それが 

現在の床の間だといわれています。

 

 

とくに茶道では、 

床の間が重視され、

 

茶席では 

必ず仏語 

中でも禅語が掛けられます。

 

 

その茶席によく 

 

「白雲自去来」 

 

という軸物が掛けられています。 

 

 

これは、 

 

せい山元ざんもと不動ふどう、 白雲はくうんおのずか去来きょらい

  

という五言対句ついく 

 

一句に縮めたものですが、

 

これを 

 

「白雲は自ら去来するも、

 

  青山は元不動なり」 

 

と逆に読むと、

 

その意味が 

よくわかりやすくなると思います。

 


 

 

 

 

 

 

 自然宗佛國寺の在る、大杉谷(三重県多気郡大台町)

  

自然宗佛國寺じねんしゅうぶっこくじの在る、
日本三大渓谷・伊勢大杉谷は、
 

 

多雨地帯で、

 

雨が降ると 

山々がすっぽり雲のふとん 

つつまれますが、 

 

雨が晴れ、  

雲が去ると、

 

山々は青きが上にも青く、 

 

そして、 

その青山の上を

片々へんぺん白雲がたなびく

 

という自然の妙景は、

 

雲が無いよりも風情があり、

美しい情景かもし出してくれます。

 


晴れてよし 曇りてもよし 富士の山

 

 元の姿は かわらざりけり

 

 

 

 

 

 

 

 

山岡鉄舟居士

山岡鉄舟居士の歌でありますが、

 

この「晴れてよし‐‐‐」の一首は、

 

まさに 

 

「青山元不動 白雲自去来」 

 

の意味を 

見事に詠じたもので、 

 

この一首 

 

その解釈は十分だと 

禅書にあります。 

 


じ しょう しょう じょう しん

自 性 清 浄 心


禅語の講釈は講釈として、 

 

これを 

自分に置き換えてみると、 

 

日常生活の中で、 

 

迷いの雲 

 

全然ないように 

生きることができるか

 

というと、 

なかなか不可能なことです。 

 

 

心に雨が降ったり、

 

迷いの雲がたなびくと、

 

本来の自性じしょう(真実不変なる本性) 

見失い

 

 

自分が何をやっているのかも 

わからんようになり、 

 

あたふたとあわてふためく 

心の弱い 

おのれがそこにあります。 

 

 

だが、 

 

本来、 

真実不変なる自性 

 

なくなってしまったか

 

というと、 

そうではありません。

 


自性じしょう清浄しょうじょうしん

 

(人が本来具えている心は おのずから清らかで、
 すべての汚れを離れたものである)
 

という仏語があります。 

 

煩悩の雲に覆われて 

心が千々ちぢに乱れ、 

 

右往左往し、 

やっとあわただしい時が過ぎ去って

 

ホッと心が落ち着いて 

われにかえると、 

 

そこには、 

人が本来具えている

 

清らかな 

汚れのない心 

ちゃんとあるのです。

 

 

ただ、 

自分が見ることができなかっただけです。 

 

迷いの雲を払いさえすれば、

 

厳然として、 

 

本来、 

真実不変なる自性 

見ることができるようになります。

 


黙雷 随感


ほめられれば  

なにかうれしく

 

そしられれば、 

なにかはらだたしい。 

 

だが、 

 

よくいわれたからといって 

おのれの徳がふえるわけでもなく、

 

わるくいわれたからといって 

おのれのねうちがへるわけでもない。 

 

 

ときによろこび 

ときにかなしんでも 

 

いつまでもそれにとらわれず、

 

なにごとにも

無心に対処する 

 

清らかなる  

こころをもちたい。



次号「苦悩の本体は何か?」 につづく。

 

 

平成29年1月28日

 

       自然宗佛國寺 開山  愚谷軒 黙雷(もくらい)

 


次号5)苦悩の本体は何か?は、
平成30年4月21日(第三土曜)の予定です。


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年から、長期連載でお伝えいたします。

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