3)塵を払わん 垢を除かん



自心の敵


2)自己の主人公 からのつづき


自心じしんてき


『菜根譚』の79条に、 

 

耳目じもく見聞けんもん外賊がいぞくたり、 

情欲じょうよく意識いしき内賊ないぞくたり、 

ただ主人しゅじんおう

 

惺々不昧せいせいふまいにして、 

中堂ちゅうどうどくせば、 

ぞく便すなわ家人かじんとならん。

 

 

・耳目見聞―――耳で聞き目で見る。これは耳目の欲。 

・情欲――― 情愛の欲をいう。または種々の欲望。 

・意識―――我意。私欲。 

・主人翁―――主人公。 

・惺々不昧―――精神がはっきりしていて、邪悪・邪心にくらまされないこと。 

・家人―――使用人。 

 

―――とありますが、 

 

 

これは2)自己の主人公 の「瑞厳主人公」と 

同義であります。 


耳目見聞は外賊たり、

 

情欲意識は内賊たり。 

 

私たちの心を乱す賊は 

 

にいます。 

 

 

耳で聞き、 

 

目で見て、

 

これが欲しい 

 

と思う欲望があります。 

 

 

 

そういう欲望は 

 

目や耳を通じて 

 

外部より入ってくる賊です。 

 

 

 

これを外賊がいぞくといい、


仏法では
外魔げまという。

 

 

ところが、 

 

人間の情欲、欲望、

 

あるいは 

 

意識作用、精神作用のようなものは、 

 

心の中におる賊です。 

 

 

これを内賊ないぞくといい、


仏法では
内魔ないまという。 

 

 

つまり、 

 

外界の刺激で生ずる欲望は 

 

「外賊」(外魔) 

 

 

自分自身の中から生まれてくる欲望は 

 

「内賊」(内魔)であります。

 

 


 

盗人ぬすびとは そとよりると 思ふかや

 

耳目みみめかどに 戸ざしよくせよ

 

   (島津日新公「いろは歌」より)

 

この歌の意味は、

 

泥棒は家屋に浸入するもの 

 

と思いがちだが、 

 

必ずしもそうではない。

 

 

 

心へ侵入することのほうが 

 

恐ろしいので、

 

耳目の戸締り 

 

しっかりするべきである――― 

 

 

 

つまり、

 

私たちは、 

 

自分の財産を守るために、 

 

泥棒が入らないように 

 

注意を怠らないのが常であるが、

 

物質を守ることのみに 

 

心を用いてはならない。 

 

 

 

本当に恐るべき泥棒は、

 

心の中に侵入してくるものである。 

 

 

従って 

 

耳や目の門 

 

よく戸締りをしなくてはならない。 

 

 

ここから 

 

いろいろな悪いものがしのび込んできて、

 

心を奪い去って行く 

 

 

即ち、

 

誘惑や迷いの言葉を聞いたり、 

 

美しいものを見ることによって、

 

本心を失い 

 

身を滅ぼすことになる。 

 

 

 

人のうわさ話 

 

評判などによって、 

 

心を乱され 

 

 

その結果、 

 

正しい判断力を失う。 

 

 

 

時には、

 

疑心ぎしん暗鬼あんきに陥って 

 

人を信頼できなくなる。

 

 

 

これらは、

 

ことごとく 

 

自分の心を乱す敵となって 

 

から攻めてくる。

 

 

釈尊が法話をされた檀に向い坐る(祇園精舎・インド)


では、

 

耳目を閉ざして、 

 

見ざる聞かざるなら 

 

心を乱すことはないかというと、 

 

 

内から敵に内応するやからがいる。 

 

 

 

それは 

 

「情欲意識は内賊たり」といい、 

 

心の内に起こる、

 

 

惜しい、 

 

欲しい、

 

可愛い、

 

憎い、

 

 

これみな内賊となって 

 

心を悩ませます。

 

 

  

只是れ主人翁、惺々不昧にして 

中堂に独坐せば、 

賊便ち化して家人とならん。 

 

この句は、 

 

主人公が大切だ。

 

 

 

主人公は明晰な

 

般若の智慧


(一切の事物・道理を明らかに捉える、悟りの智慧)


を備えているので、

 

 

主人公

 

中堂に正しく坐っておれば、

 

 

内賊外賊 

 

みなその家の人となり、

 

 

心のままに 

 

使いこなすことが出来るようになる

 

―――という意味であります。

 


ここでいう主人公とは何かというと、

 

自己の主」であり、 

 

真実の自己」であり、

 

本来の自己」でありますが、

 

これを 

 

禅家では

 

「 仏 性 」

(仏陀=覚者となる本性)、 

 

または

 

「本来の面目」
(人が具有する、天然のままの本性。仏性)
 

 

といっております。 

 

 

そういう主人公が、 

 

私たちの心の中 

 

厳然と坐っているのです。 

 

 

その主人公 

 

フラフラしていると 

 

賊が侵入してきますが、

 

 

確りしている場合には 

 

内賊外賊 

 

近寄ちかよることはできません。 

 

 

即ち、 

 

自己の本尊である

 

「主人公」が、

 

中堂=心中の仏殿に 

 

デンと坐っておれば、

 

 

からの誘惑も、 

 

から起こる種々の欲望も、 

 

 

みな家人として

 

 

心のままに 

 

使いこなすことができる―――

 


ところが、 

 

これを自分に置き換えてみると、

 

「山中の賊を破るは易く、

 

心中の賊を破るは難し」(王陽明) 

 

であります。 

 

 

日々、 

 

自己の主人公 

 

対坐しておればよいのですが、

 

家のき掃除が行き届いていないと、 

 

ご主人様は 

 

居心地いごこちが悪く、 

 

しょっちゅう家を留守にされるので、

 

からの誘惑や 

 

から起こる種々の欲望に 

 

悩まされて 

 

紛々擾々ふんぷんじょうじょうとして 

 

心の安まる暇もありません。 

 

古 歌

 

我が心 池の水にこそ たりけり

 

にごむ事の さだめなければ 

 

 

実に濁り澄むことの定めのないのが、 

 

我が心であります。 

 

 

 

自分を振り返って見ると、 

 

ご主人様が不在の場合、

 

毎日、 

 

五欲煩悩に汚染された生活を繰り返し、 

 

 

そのとりこになって、

 

身も心も苦しめられ 

 

悩まされて、

 

心はコロコロと転がり、 

 

あちらにコロコロ、 

 

こちらにコロコロと転げて、

 

柱の角に頭をぶつけ 

 

痛い思いをしたり、 

 

階段を踏みはずして怪我をしたりして

ほぞ
 

 

 

仕舞った

 

と思ったところに

 

ご主人様がご帰宅になって 

 

「ああ、悪かった」 

 

気がつく 

 

 

ところが凡夫僧の情け無さで、

 

気がついたかと思えば 

 

また腹を立てる 

 

 

 

するとご主人様は

 

また家を出ていかれる。

 

 

そこで 

 

家をいつも綺麗に拭き掃除をして、

 

ご主人様を 

 

チャンと心の内に置いておかねばならないと、 

 

只今 努力中であります。

 


兼好法師 徒然草の教


かの有名な

 

吉田兼好の『徒然草』の第235段に

 

 

「ぬし(主)有る家には、 

 すずろなる人、 

 心のままに入りくる事なし。 

 

 あるじ(主)なき所には、 

 道行き人みだりに立ち入り、 

 狐・ふくろうやうの物も、 

 人げ(気)にかれねば、

 

 所えがほに入り住み、 

 こだまなど云ふ、 

 けしからぬかたちも現るるものなり

 

‐‐‐(中略)‐‐‐

 

心にぬし有らましかば、 

胸のうちに、 

若干そこばくのことは 

入りきたらざらまし」

 

という一文があります。 

 


兼好法師は、

 

まず家主が不在であると 

 

行きずりの人や盗人がみだりに入り込み、 

 

さては狐狸が棲みつき、

 

妖怪変化なども現れるようになる 

 

と述べている‐‐‐‐ 

 

 

 

これを例として 

 

心の場合も同様で 

 

「心のぬし 

 

留守なものだから、 

 

 

あられもない煩悩妄想 

 

わがもの顔に心中に起こり、

 

のさばるのだと説いています。 

 

 

 

そして 

 

兼好法師が 

 

「心の主」と名付けたもの、 

 

それが 

 

ここでいうところの 

 

「主人公」であります。 

 

 

ぼろ寺でも、 

 

はにゅうの小屋でも 

 

誰々の家というように

 

主人公定まっていれば

 

無闇むやみに這入ることはできない。 

 

 

心の場合 

 

これと同様で

 

主人公が不在だから、

 

様々な欲望が起こり 

 

誘惑が入り込む、 

 

 

 

だから 

 

仏性という 

 

主人公をチャンと摑んでおく 

 

ということが大切であります。 

 

 

 

だが、 

 

この主人公 

 

確りと摑んでおく 

 

ということは難しい 

 


では、どうしたらよいか―――

 

その方法は 

 

人はそれぞれだと思いますが、 

 

 

私の場合は、 

 

まず自分の心から逃げ出した 

 

主人公求める。 

 

 

つまり、 

 

主人公逃げ出した 

 

気が付けば 

 

そこに求める心が起こる。 

 

 

 

その心が起これば 

 

早や心中の主人公 

 

ご帰宅になっているので、

 

 

このご主人様が 

 

ふたたび逃げ出さないように 

 

家の拭き掃除に精いを出す。 

 

 

これが 

 

 

自己修養の基本

 

だと考えています。 

 


この修養方法は、

 

まず 

 

悪いと気が付く。 

 

 

すると 

 

ご主人様がチラリと姿を現わす 

 

 

だが悪かったと気が付いても、 

 

また御不在になってしまうから、 

 

 

「ああ悪かった」、

 

「ああ悪かった」、

 

「ああ悪かった」

 

の連発になります。 

 

 

そこで、 

 

さらに努力して、

 

悪いと気が付いた事は、 

 

 

どんなことがあっても 

 

絶対にやらないという決心をする。

 

 

 

それならば 

 

決心だけでいいのかというと、 

 

そうは行かない。 

 

 

 

この決心 

 

三日決心、四日決心で、

 

五日目には 

 

また元に返ってしまう 

 

 

例えば、 

 

酒で大失態を演じて、 

 

「もう酒は飲まない」と決心する。 

 

 

ところが友達にさそわれて、 

 

またぞろ飲み出して 

 

決心が崩れ 

 

元の木阿弥となる――― 

 

そこをグッと辛抱して 

 

飲まないと決めたのが決心

 

 

 

それがしばらくたって、 

 

また、 

 

我が禁酒 やぶれ衣と なりにけり

 

さあついでくれ さあさしてくれ 

 

と飲み出して、 

 

せっかくの決心も駄目になる 

 

 

そこを 

 

ここが辛抱のし所 

 

酒を飲まないと、

 

と月、た月、半年、一年、 

 

さては五年、 

 

十年と続けて行けば 

 

飲みたく無くなります。 

 

 

心の場合 

 

これと同様で、

 

何事も続けて行く 

 

相続心が大切です。

 

 

 

 習慣は第二の天性にして、その力は天性に倍す」

 

というように、

 

 

怠ることなく、

 

今日一日の辛抱、

 

今日一日の辛抱と 

 

続けていれば、 

 

 

ご主人様 

 

自分から離れなくなってきます。

 

 


ちりはらわん、あかのぞかん


 私は末っ子で3歳の時、 

 

父を亡くしましたので、

 

父方のおば達が 

 

不憫ふびんな子 不憫な子  

 

何をやらかしても大目に見てくれました。 

 

そこえ隣に住んでいた 

 

伯母夫婦に子供がなかったので、

 

猫かわいがりに可愛がられ、

 

自分のいうことは 

 

大抵たいていきいてくれましたので、

 

家に帰って 

 

兄や姉が思い通りにならぬと、 

 

よく癇癪かんしゃくたまを破裂させる 

 

我儘子わがままこでした。 

 

 

母は女丈夫じょじょうふで大変厳しく、

 

度を過ぎた悪さをすると、

 

仏壇の前で、 

 

日本刀を抜いて、

 

「お父さんのところへ一緒に行きましょう」―――

 

こういうことが何度もありましたが、

 

その度に 

 

隣から伯母さんが飛んで来て 

 

一緒にあやまってくれるので 

 

許されました。 

 

でも性懲しょうこりもなく 

 

しばらくすると、 

 

また悪さをする腕白坊主でした。 

 

 

私は子供の頃から、

 

周囲にかなり甘やかされていたので、 

 

何事にもグッと耐える辛抱心が足りず、

 

また三日坊主でしたので

 

成人してから、 

 

このなまくら根性 

 

叩き直すのにかなり苦労しました。



 そのような 

 

「ぐうたら兵衛べい」の自分に 

 

 

愚者でも、 

 

辛抱強くやれば やれる

 

 

と教えてくれたのが、

 

周利槃しゅりはんどく の 生き方でした。

 


愚者・周利槃特の悟り


昔、釈尊の教団に、 

 

周利槃しゅりはんどくという仏弟子がいました。 

 

 

彼はひどく低能で、

 

自分の名前も覚えられなくて、

 

いつも名札を背中に貼って 

 

托鉢をして歩いたそうです。 

 

 

ある夕方、 

 

釈尊は、 

 

祇園精舎の門外に、 

 

ひとり悄然とたたずんで 

 

涙を流している周利槃特を見かけて、 

 

やさしい声をかけられました。 

 

 

「周利槃特よ、何故泣くのか」 

 

「世尊よ、 

 私は生来暗愚で、 

 もう3年も修行しているのに、 

 いまだに一つの聖訓もそらんずることができません。

 

 今、兄に修行をやめて家に帰れと叱られましたが、 

 ここを去るのが悲しく泣いております」 

 

 

周利槃特は、 

 

釈尊の弟子のうちで、 

 

一番頭の悪い人だったので、

 

 

釈尊は彼に

 

 

「三業に悪を造らず、 

 

  もろもろの有情を傷めず、

 

  正念に空を観ずれば、 

 

 無益の苦しみは免るべし」―――

 

 

・三業――― 身と口と意の三つのはたらき。

 

・有情――― 人や鳥獣などの生き物。

 

・正念――― 邪心を離れ、真理を求める心を常に忘れないこと。

 

・空 ――― 一切の事物はすべて因縁より生ずるものであって、

その実体も自性もないとする考え。

  

――― というきわめて短い句を教えましたが、 

 

 

彼には 

 

それが

 

どうしても覚えられませんでした。 

 

 

だから 

 

釈尊の教えなど 

 

到底とうてい体得たいとくできない 

 

彼は自分の愚かさを嘆きました 

 


釈尊は、 

 

「心配することはない」 

 

一本のほうきを与え 

 

 

「塵を払わん、垢を除かん」

 

 

 と唱えながら、 

 

僧院の掃除をすることを教えました。 

 

 

周利槃特は、 

 

毎日 祇園精舎に集まる多くの僧の 

 

履物のほこりを払い

 

僧院の掃き掃除をしながら 

 

 

釈尊に教えられた通り、 

 

 

その言葉を唱え、 

 

何年も掃除を続けました。 

 

 

やがて、 

 

彼の身体にしみ込んだ、 

 

その言葉は、

 

 

とは煩悩

(心身をわずらわし悩ませる一切の妄念) 

 

であり、 

 

 

とは無明
(真理に暗いこと。一切の迷妄・煩悩の根源)

 

 である。 

 

 

仏法の修行とは 

 

 

この除くことだと 

 

 

体得することができました。 

 

 

そして、 

 

ついに 

 

神通じんずう(自由自在の活動能力)説法第一の

 

 

阿羅漢あらかん(仏法修行の最高の段階に達した人)」 

 

 

となることができました。 

 


釈尊の教えを

 

素直に信じて 

 

 

愚直に 

 

黙々と実践した周利槃特―――

 

 

 

この愚者の一徹の生き方 

 

行の土台において、

 

 

行脚55年、下座行(路上坐禅)50年の行を 

 

成就することができました 

 

愚 歌

 

愚の愚なる われはこれしか できぬなり

 

  黙々と坐り  黙々と歩く

 

 

 

人は人 われはわれなり 黙々と

 

  ただ黙々と  吾が道を行く

 

平成29年開祚


日本三大渓谷・伊勢大杉谷

      自然宗佛國寺じねんしゅうぶっこくじにて   愚谷軒 黙雷 合掌 


毎月・第三土曜に更新

自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年から、長期連載でお伝えいたします。


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