2)自己の主人公



2)自己の主人公


自己反省


自己反省の方法は 

 

人それぞれだと思いますが、 

 

私の場合は、 

 

坐禅―――正身端坐―― 

 

まず姿勢を調えて、

 

まっ直ぐに腰を据えて 

 

端正に坐る。 

 

 

そして、

 

自己の心の内に向かって 

 

静かに考え、 

 

心を整理する。 

 

 

 

さらに自問自答して 

 

自分で自分の行動を

 

批判して見ることにしています。

 

自然宗佛國寺での坐禅(米国からの若い女性参加者)


心を整え 

 

内に向かって 

 

真実の自己 

 

見詰めると、 

 

心の奥底にひそめる

 

「仏性の光」 

 

見えてきて、 

 

だんだん 

 

自分の過失 

 

見出されてきます。

 

 

そして 

 

「ああ悪かった」 

 

気が付きます。 

 

 

 

この気付くということは、 

 

天地万物と 

 

自己とが 

 

一貫する 

 

神泉のほとばしりで、 

 

 

これによって 

 

罪業を 

 

洗い浄めると、 

 

明々皓々めいめいこうこうたる 

 

もとの光が現れてきます。

「正しい坐禅の仕方」をご参照下さい

 

 


 

 涅槃ねはんきょう』に 

 

「陰雲のぞけば 

 

すなわち清明なるが如く、

 

悪をして 

 

能くゆるも 

 

亦此の如し」 

 

とあるが、 

 

 

 

その悔い改める 

 

初一歩は、

 

まず 

 

静かに自己を反省する――― 

 

 

反省内観は 

 

実に 

 

よりよき自己 

 

築き上げんとする 

 

唯一の経路であり、 

 

自己向上の一路であります。 

 

 


そこで、 

 

自分の人生76年を 

 

反省内観してみると、 

 

 

自分の目は 

 

終日、 

 

他人を見るが故に、

 

 

心は外を追うて走り、 

 

 

終日 

 

他事に接するが故に、

 

 

目もまた外を追うて 

 

未だかって内を照らさず、

 

 

心は波うち 

 

落ち着かず、 

 

毎日、

 

内魔外賊に周りを取り囲まれて、 

 

 

「真実の自己」 

 

 

忘却しておりました。 

 


故に、 

 

外界からは 

 

見聞覚知

(見たり、聞いたり、考えたり、知ったこと。 

 六識=眼耳鼻舌身意のはたらきの総称) 

 

の賊が襲来し、 

 

内界から 

 

情欲(種々の欲望)意識という 

 

魔に迫害され、

 

76年生きてきたが、

 

その76年が 

 

自己自身の生涯ではなく、 

 

内魔外賊に支配されて

 

 

心ならずも

 

夢の如き、 

 

幻の如き 

 

生涯を送ってきました。

 

 

 

実に 

人間として残念なこと、 

 

ずべきことだと

 

反省しております。

 


心の修養―――

 

心、

 

即ち 

 

精神の修養で、 

 

 

神様や仏様に 

 

祈ったり、

 

頼ったり、 

 

願ったり 

 

するのではなく、

 

 

 

自己の心中には、

 

神様にも 

 

仏様にも 

 

あえて譲らざる 

 

 

「真実の自己」 

 

 

即ち、 

 

じゅんいつ円満えんまん=完全に純粋で

 

何一つかけることのない 

 

すべてをそなえている 

 

 

「仏性」

 

 

具足しています。

 

 

故に、 

 

自己自身について、

 

外に向って尋ねず、

 

内に向かって 

 

ウンと心を練り、 

 

忘却している 

 

真実の自己――― 

 

 

 

禅家でいう 

 

主人公 

 

取り戻すことが肝要であります。 

 

 


主人公


主人公とは、 

 

「真実の自己」であり、 

 

「自己のぬしであり、 

 

「本来の自己」でありますが、

 

 

これを禅家では 

 

「仏性」

(仏陀=覚者となる本性)、 

 

 

または

 

 

本来の面目

(人が具有する、天然のままの心の本性。仏性)

 

 

といっています。

 


ここで、 

 

「主人公」

 

の一語について、 

 

あお道心どうしん

(出家してまだ仏道修行の浅い人)

 

だった頃、 

 

「主人公」といわれても

 

 チンプンカンプンでしたので、

 

 

いくらか 

 

説明を加えたいと思います。

 

 

 

普通の常識からすれば、

 

主人公とは、

 

客体的存在に対する 

 

主体的存在 

 

を指します。 

 

 

 

つまり、

 

「何かの主人公」

 

を意味します。

 

 

 

しかし、

 

ここでは、

 

このような

 

相対的「主・客」 

 

ではなく、 

 

主・客を共に超えた、 

 

一切の対象化・概念化の 

 

不可能な、

 

それ自身に 

 

存在の意味を全うする 

 

 

「根本主体」 

 

 

のことであります。

 

 

 

このように、 

 

私がいろいろ形容すること自体、 

 

対象化への一歩

 

概念化への一歩 

 

踏み出したことになります。

 

 


ここのところを 

 

栄西禅師が 

 

歴却りゃくこう無名むみょう

歴却名無し=永久に名づけえないもの

 

といわれた所以であります。

 

 

この歴却無名の 

 

当体(ありのままの本性)

 

に対して、 

 

後に述べる 

 

瑞厳師彦ずいがんしげん禅師は 

 

「主人公」といい、 

 

 

また、 

 

ろく慧能えのう禅師は 

 

「本来の面目」と呼び、 

 

 

臨済義玄禅師は 

 

無位むい真人しんにん 

 

名付けた。 

 

 

 

みなこれは 

 

強いて名付けた 

 

同体異名 

 

ほかならない―――。

 


 今、 

 

一つ、

 

自分の過去の 

 

思い違いの経験から、

 

はっきりさせておきたいことは、 

 

 

 

「主人公」 

 

自我 

 

だと思ったら、 

 

大変な間違いだということです。 

 

 

 

自我は、 

 

常に 

 

内魔外賊の奴隷となっている。 

 

 

 

つまり、 

 

内魔外賊に 

 

引きまわされています。 

 

 

 

その証拠には、 

 

順境に逢うと、

 

それに 

 

没溺し、

 

 

逆境に遭うと、

 

それに 

 

悩み苦しみ

 

 

自己の主人公 

 

見失ってしまいます。

 

 

 

そこで、

 

日常ともすると、

 

どこかに 

 

置き忘れたり、

 

 

 

時には、

 

大切な 

 

ご主人様のおられることも 

 

忘却したりするので、 

 

 

自己の主人公 

 

確りと 

 

摑まえておく必要があります。

 

 

 


瑞厳主人公


この主人公について、

 

思い起こされるのは、 

 

瑞厳師彦ずいがんしげん禅師の 

 

修養ぶりであります。 

 

 

それこそ 

 

外に向って尋ねず、 

 

内に向かって尋ねられた 

 

好模範であります。 

 

 

 

瑞厳和尚は、 

 

毎日、

 

岩の上に坐禅を組み、

 

 

 

自身に向って、

 

「主人公」――― 

 

 主人公は留守になっておらぬか、 

 

 真実の自己は健在か、 

 

 

と呼びかけ、 

 

また、

 

自ら、 

 

だく―――  

 

 ハイ、居るぞ 

 

と自答し、 

 

 

重ねて、 

 

惺々せいせいじゃく――― 

 

 居るには居ても、

 

 居眠りしていては 

 

 駄目だぞ。

 

 ハッキリ目をさましておれよ、

 

と自分で自分に 

 

けいさくを加え、 

 

 

 

諾々だくだく――― 

 

 ハイ、醒めております。 

 

と、自答。

 

  

 

そしてさらに、

 

 

異日いじつ 

 

人のまんを受くることなかれ」――― 

 

 

 これから先、 

 

 真実の自己以外のもの、

 

 他人はもとより、 

 

 五欲煩悩、

 

 即ち、 

 

 世間の毀誉褒貶や 

 

 名利や 

 

 人情などに

 

 たぶらかされないように 

 

 気をつけろよ、

 

 いつでも、 

 

 どこでも 

 

 真実の自己で生きよ、 

 

 

いましめておいて、

 

 

 

また自ら

 

「諾々」――― 

 

 ハイハイ、 

 

 承知承知 

 

と自答したと伝えられています。 

 

 

 

これが、 

 

外に向って尋ねず、 

 

内に向かって修養する 

 

自問自答の一例であります。

 

 


瑞厳和尚は、 

 

「主人公」と呼ぶときは、

 

徹底 

 

主人公に成り切り、

 

 

 

「諾」と答える時は、 

 

徹底 

 

諾に成り切り、 

 

 

 

惺々せいせいじゃくと呼びかける時は、

 

徹底 

 

惺々着に成り切り、 

 

 

 

「諾々」と答える時は、 

 

徹底 

 

諾々に成り切る――― 

 

 

 

瑞厳和尚は、 

 

呼ぶも主人公 

 

こたえるも主人公 

 

 

徹底 

主人公 

 

成り切っておられます。 

 

 


ところが、 

 

これを自分に置き換えて 

 

点検してみると、 

 

たやすいようで 

 

至難のことです。

 

 

 

例えば、 

 

主人公が不在だと、 

 

「諾」――― 

 

ハイと答える時も、

 

上の空でハイと答えることがあります。 

 

 

 

また、 

 

何事かに気を取られて

 

手元がくるい、 

 

しまった 

 

と思うことがよくあります。 

 

 

 

時には、

 

山作務中、 

 

手や足を怪我けがして 

 

痛い思いをすることがあります。

 

 

 

そこで、

 

反省して

 

見失っている

 

主人公を見出し、

 

 

これに相見して、 

 

主人公 

 

取り戻す努力をしています。 

 

 

 

「言うは易く 行うは難し」 

 

ですが、

 

このところ、

 

ご主人様も 

 

あまり家を留守にされなくなりました。



*次号「3)塵を払わん、垢を除かん」につづく

  

 

平成28年12月24日

 

       自然宗佛國寺 開山   愚谷軒 黙雷(もくらい)

 

 


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年から、長期連載でお伝えいたします。


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