第八話 マインドフルネスは 禅に似て 禅に非ず(中)


マインドフルネスは 禅に似て 禅に(あら)ず(中)



理解のために 背景を知る


第七話 マインドフルネスは禅に似て禅に非ず(上)では、

 

「禅とはなにか」

についてお伝えしました。

 

 

マインドフルネスの提唱者、

ティク・ナット・ハン師の
経歴をみると、

ベトナム・フエ出身で、

臨済宗の法灯を継承した

禅僧 (詩人、学者、平和運動家)とある。

 

彼はベトナム独立戦争の時、

ベトナム共和国(南ベトナム)と、

ベトナム民主共和国(北ベトナム)の

和解に尽力。

渡米して

和平提案の
スピーチを行ったことから、

南北ベトナム政権双方から

追放処分され、

かつての宗主国(植民地支配者)である

 

フランス亡命したという―――

 

ここで、

私の頭の中にうかんだのは、

民族の自由独立

のために戦った

ホー・チ・ミンガンディー

「人間としての価値ある生き方」

であった。

 

当時の状況の

理解を深めるために、

 

フランスアメリカ

ベトナム侵略に対する

 

独立戦争前後の

歴史をみてみたいと思います。

 

 


民族の自由独立―――


自由』とは、

 

独立自存であること。

 

 

独立』は、

 

他に影響されず、

超然として存在すること―――

 

と仏語大辞典にある。

 

 

 

祖国が外国勢力に

侵略され

支配された場合に

失うものがある。

 

それは

 

国か、

 

人民の生命か―――

 

ちがいます。

 

 

国土でもなければ、

 

人民の生命でもない。

 

 

侵略者に対して

抵抗せず、

 

民族の誇りを捨てて

従順に従っておけば、

 

決して生命を奪われることもない。

 

 

では、

主権であるか。

 

 

ちがう―――

新たに外国勢力の走狗(そうく)

 

つまり

手先となる

傀儡(かいらい)政権が組織されて

国土を支配する。

 

 

主権が

傀儡政権に変わるだけです。

 

 


では

何を失うのか―――

 

国が亡ぶ時、

失うものは

 

民族の自由独立

 

不羈(ふき)の精神です。

 

 

 

国の主権が

外国勢力の手に帰すれば、

 

国民が欲せざる

風俗、習慣、言語、法律

強いられます。

 

 

国民が

天地に換え難しとする、

 

民族の歴史、伝統文化

 

即ち、

風俗、習慣、言語等

失われます。

 

 

 

国を守る力―――

 

それは

百万の軍隊でもない、

 

軍艦大砲でもない、

 

核武装でもない。

 

 

国土の歴史を尊び、

 

民族の伝統文化に根ざした

 

国民の

自由独立不羈(ふき)の精神である。

 

 

 

「侵略者である 外国勢力と

 

その傀儡政権との

 

和解など有り得ない。」

 

 

 

その実例を

ベトナムの歴史と

 

ガンディー

 

「民族独立の戦い」

 

から見てみましょう

 

 


詩人タゴール(左)とマハトマ・ガンディー(右)


「クイット・インディア」

― インドを出て行け ―  (マハトマ・ガンディー)

 

ここに、

ホー・チ・ミン、

 

ガンディー

 

「民族独立の戦い」

 

本意があります。

 

 


ベトナム民族の独立戦争


1、救国の英雄


1771年、

ベトナム南部の支配者・(グエン)氏の

圧政に対し、

 

中部西山(タイソン)を拠点とする

(グエン)(ニャック)(グエン)(リュ)(グエン)(フエ)

三兄弟が蜂起した。

 

1777年、

支配者阮氏一族を制圧

 

さらに

北部支配者(チン)氏を討滅して、

 

200年間分裂していた

南北ベトナムを統一した。

 

この時、

阮氏一族の生き残りの一人

 

(グエン)(フック)(アイン)

シャム軍(タイ)の援助で

 

ベトナムに侵攻してきたが、

末弟・阮恵の軍団に撃退された。

 

 

北部では

旧勢力を支援する

中国・清朝軍が侵入してきたが、

 

これも撃退し、

西山王朝(17871802年)を建国した。

 

ところが、

阮恵は39歳で急死した。

 

阮恵は、

1285年と1288年の二度にわたる

中国・元軍の侵攻を撃退した

(チャン)(フン)(ダオ)とともに、

 

祖国ベトナムを

辱め干渉しようとする

 

外国勢力を撃破した

 

救国の英雄として、

 

ベトナム人民に尊崇されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阮恵 像
ビンディン省タイソン県光中博物館に立つ

グエン・フエ像


2.フランスのベトナム支配


機をうかがっていた阮福映は、

 

カトリック神父と

フランス志願兵の力をかりて、

 

1788年に中部ベトナムを奪還。

 

 

1802年、西山王朝を打倒して

(グエン)王朝を創建した。(18021945

 

だが、

この王朝は

カトリックやフランスの軍事力

依存していたため、

 

その後、

フランスの植民地化路線

 

布石が敷かれた。

 

 


* フランスの侵略

フランス

キリスト教迫害を口実にして

 

1883年にベトナム全土を

フランスの植民地支配下においた。

 

阮朝は

廃絶を免れたが、

 

フランスに従属する

名目上の政権として、

フエに存続するのみとなった。

 

 


* フランスの直接支配

 

ベトナム人民の

敵意と反抗の中、

 

フランスは直接支配を行い、

上部はフランス人が牛耳(ぎゅうじ)り、

 

下部はベトナム人に委ねた。

 

フランスの植民地支配

当初は反発が多かったが、

 

徐々に

ベトナム人の中にも

対仏協力者が現われてきた。

 

それは、

旧官僚地方支配階級である。

 

 

そして、

カトリック化、

フランス化を図るための

 

学校教育がすすみ―――

 

このフランス化政策によって

 

輩出された知識層が、

後の

 

南部ベトナム特権階級となった。

 

 


3.ホー・チ・ミンと民族独立戦争


ホー・チ・ミン:親しみを込めて『ホーおじさん』と呼ばれている


フランスにとってみれば、

支配しやすい植民地となったが、

 

ベトナムからみれば

 

激しい搾取

にあうことになり、

強い排仏運動が起きた。

 

 

これに対して

フランス

 

地方支配者階級を取り込み、

ベトナム人を

分裂させた。

 

農民や商工者、労働者は零落し、

 

中には

半奴隷の生活

余儀なくさせられたものも多くいた。

 

そのような

苛酷な状況のなかで

 

北部では

農村を中心に

反仏抵抗闘争が展開された。

 

このフランスへの抵抗闘争は、

 

民族独立運動の指導者を

数多く生んだものの、

 

政治勢力として

発展することはできなかった。

 

 

民族独立運動に

新しい展望を開いたのが

 

ホー・チ・ミン(胡志明)である。

 

彼は1925年、

独立を志す青年を組織して、

「ベトナム青年革命同志会」を結成。

 

 

そして、

武力による

ベトナム解放を目指して、

 

1930年、

ベトナム共産党を創設して

大蜂起したが、

 

鎮圧されて

失敗に終わった。

 

 


* 日本軍の進駐

19409月、

フランス

ナチス・ドイツに破れると、

 

日本軍が

ベトナムに進駐して、

フランスと共同支配を始めた。

 

1941年、

ホー・チ・ミン

共産党の指導の下に

「ベトナム独立同盟」(べトミン)を組織し、

 

日仏支配に抵抗。

 

19458月、

日本の無条件降伏と同時に、

 

べトミンは

一斉蜂起(8月革命)して、

 

92日、

ホー・チ・ミンを主席とする

ベトナム民主共和国を樹立した。

 

そして、

ここに阮王朝は

完全に崩壊した。

 

 

「ポツダム宣言」
(米・英・中3国の名で日本に対する降伏勧告の宣言)

 

―――後にソ連は、

「日ソ不可侵条約」を

一方的に破棄して

 

対日戦に参戦し、

同宣言に参加―――。

 

 

このポツダム宣言では、

北部は中華民国(蒋介石の国民党政権)が、

 

南部はイギリス

日本軍の武装解除

を行うことになっていたが、

 

9月から

イギリスの支援

フランスの再侵略が始まり、

 

19462月までに

北緯15度線以南が

フランスの支配下になり、

 

これから8年間におよぶ

 

インドシナ戦争(抗仏戦争)が始まる。

 

 


4.ベトナム独立戦争 と 元日本兵


今年の2月、(2017年)

ベトナムを訪問された

天皇皇后両陛下が、

 

残留元日本兵家族

ハノイで面会された。

 

天皇様は

「長いことご苦労様でした」

ねぎらわれた。

 

皇后様は

日本兵の妻グエン・ティ・スワンさん(93歳)

の前にしゃがみこんで

 

手を取り

「どうぞ、お大事に」

声をかけられたことは、

皆様の記憶に新しいことと思います。

 

 




日本では

あまり知られていませんが、

 

1945815日の

大東亜戦争

(アメリカでは「太平洋戦争」という)

 

終結後、

 

多くの日本兵は帰国したが、

 

一部は

現地にとどまり、

 

将兵約600人が

ホー・チ・ミンらが率いる

ベトナム独立同盟(べトミン)に参加し、

 

ベトナム独立のために、

インドシナ支配を

再びもくろむ

フランス軍と戦った。

 

 

ホー・チ・ミンは、

日本軍の兵器の譲渡を求め、

 

残留日本軍将兵らに

ベトナム人指揮官の養成を願い出た。

 

 

そして、

ベトナム中部クアンガイに、

 

グエン・ソン将軍を

校長とする

指揮官養成のための

「クアンガイ陸軍中学」が設立された。

 

この学校は、

教官と助教官が全員

日本陸軍の将校と下士官という

 

ベトナム初の

「士官学校」であった。

 

クアンガイ陸軍中学は、

ベトナム全土から

選抜されてやってきた青年が、

 

実戦経験豊富な日本人教官から

日本陸軍の戦術をはじめ

指揮統制要領を学んだ。

 

 

1946年からの

第一次インドシナ戦争では、

 

元日本兵

最前線

ベトナム兵を率いて戦った。

 

開戦当初は

フランス軍が優勢であったが、

 

戦況は一転し、

少し前までは

非力であったベトミン軍が、

 

見違えるように強くなり、

しかも

見事な近代戦を挑んできた。

 

フランス軍

押され気味になり、

 

そこえ

フランス国内の経済

破綻をきたし始めたため、

 

休戦交渉を提案してきたが、

ベトナムは

これを拒否した。

 

 

侵略者フランス

 

休戦交渉、

 

和平提案、

 

和解を呼びかける資格はない。

 

 


ベトナムから出て行け―――

 

それが

 

和解の第一歩であり、

 

問題解決の道である。

 

 

かくして、

19543

「ディエンビェンフーの戦い」が起こり、

 

55日に及ぶ激戦で

フランス軍は大敗北し、

劣勢が明らかになった。

 

この第一次インドシナ戦争では、

フランス軍との戦闘で

多くの

日本兵が戦死した。

 

また、

その後の第二次インドシナ戦争で

アメリカ軍と戦った

元日本兵もいると

伝えられている―――。

 

 

現代ベトナム軍の基礎は、

 

残留旧日本陸軍の将兵によって

作られたといっても過言ではない。

 

こうした

元日本兵の貢献が、

 

ベトナム国民を感動させ、

 

この国の

対日感情 

影響を与えた

ことはいうまでもない。

 

 


5.アメリカの侵略


フランス軍の大敗北の

2か月後の19547月、

 

ジュネーブ協定が成立して、

 

フランス軍は撤退したが、

 

アメリカの介入で、

 

南部にベトナム共和国

(南ベトナム・サイゴン政権)が成立し、

 

ジュネーブ協定に定められた

2年後の

統一選挙は実現しなかった。

 

そして、

ベトナムは南北に分裂し、

 

第二次インドシナ戦争が始まった。

 

 

南ベトナムでは、

反政府勢力に対する

恐怖政治が行われ、

 

これに対して

196012月、

「南ベトナム解放民族戦線」

結成され、

 

アメリカの侵略

抵抗する中心勢力となる。

 

これに対抗して

アメリカ

大規模の軍事介入に乗り出し、

ベトナム戦争が本格的する。

 

こういう中、

 

1963年、

仏教僧

ティック・クアン・ドウック師

 

抗議の焼身自殺をして

世界に衝撃を与えた。

 

1968316日の朝、

へカリー中尉率いる小隊が

ソンミン村に突然侵入して、

 

504人の村民を殺戮(さつりく)した。

 

このアメリカ軍の残虐(ざんぎゃく)な行為は

ベトナム内外の

世論を憤激(ふんげき)させた。

 

 

 

1969年、

ホー・チ・ミンは死去したが、

 

彼の志を継ぐ、

解放戦線と北ベトナム軍は、

 

1975430日サイゴンを攻略し、

ここに

南北ベトナムは統一された。

 

 

軍事力において

非力なベトナムが、

 

大国アメリカに勝つことができたのは、

武器の力ではなく、

 

ベトナム民族の

自由独立不羈(ふき)精神

 

にあると思う。

 

 


マハトマ・ガンディーと詩人タゴール


ティク・ナット・ハン師

紹介欄に

 

ベトナム出身の禅僧で、

詩人、平和活動家として名高い。

 

師が中心となって提唱した 

「行動する仏教(エンゲージド・ブディズム)」は、

 

仏教の伝統的な瞑想修行を

非暴力による市民的不服従の運動を

結びつけたものである――――

 

とある。

 

 


1.非暴力とは何か?


マハトマ・ガンディー


「非暴力による市民的不服従闘争」

 

実践的指導者は、

 

マハトマ・ガンディーである。

 

大英帝国(イギリス)に対して、

ガンディー

 

身命をなげうって実践躬行した

 

「非暴力」の戦いに、

おおきな感銘を受け

 

心が奮い立つ思いをした。

 

 

 

その

非暴力とは何か?」を、

 

ガンディーの週刊誌

『ヤング・インディア』

19191931年まで出版)

 

にみてみよう―――

 

 


直接行動 ―受け身をなくすこと―

 

㋑ この地上では、

  直接行動なしには

何も成し遂げられなかった。

 

  私は「受動的抵抗」を拒否する。

 

  なぜなら、

  この言葉は、

  不十分で、

  弱者の武器

と解釈されるからである。

 

 

 

㋺ 非暴力は、

  悪に対する

  真の闘争を

すべて断念することではない。

 

それどころか、

私が考える非暴力は、

 

その本質が

悪を増大させる に過ぎない

報復ではなく、

 

悪に対する、

より積極的な

真の闘争である。

 

私は不道徳に対する、

精神的な、

 

したがって

道徳的な反抗をもくろんでいる。

 

私は専ら、

より研ぎ澄まされた武器を

振りかざして対抗するのではなく

 

私が力づくでの抵抗をするだろうという

相手を裏切ることによって、

圧制者の剣を鈍らせよう

とするものである。

 

私が行う

精神の抵抗は、

圧制者をうまくかわすであろう。

 

それはまず、

圧制者を茫然とさせ、

 

そして最後には

承認を取り付けるだろう。

 

その承認は

彼の面目を失わせるものではなく、

彼を高めるものとなろう。

 

 

 

㋩ 非暴力は、

  その動的な状態においては、

 

  自らすすんで

  苦しみを引き受けること

を意味する。

 

それは、

悪人の意志に対する

屈辱的服従ではなく、

 

圧制者の意志に

全身全霊をもって

抵抗することを意味する。

 

この人間存在についての

法則に従って行動すれば、

 

不公正な

帝国の全権力に対して、

 

自分の名誉や宗教や魂を

守るために、

 

一個人が公然と反抗し、

帝国の崩壊と

 

その再建の基礎をつくることも可能である。

 

 


一人立つ勇気

 

数の力は

 

臆病者が喜ぶところである。

 

 

勇敢な人は、

 

一人闘うことを誇りとする。

 

 


2.イギリス製綿布のボイコット


1921731日、

ガンディーは、

 

イギリス製綿布の

ボイコットを開始した。

 

イギリス製綿布こそは、

 

インドの富を収奪し、

インドの経済を破壊した

イギリス植民地の象徴である。

 

 

だが民衆に、

そうした植民地政策の

巧妙なカラクリ

説明しているいとまはない。

 

 

今はそれよりも、

夜空を焦がす炎を見まもりながら、

 

無言のうちに、

残虐なイギリス帝国支配への

憤りと抗議に目覚め、

 

同時に

己の心に巣食う

 

不浄なものや

弱くてしかも臆病な心

焼き払うべきだ。

 

ガンディーは

言葉を超えた 

民衆の行為の論理を知っていた。

 

 


* 詩人タゴールの危惧

 

ラビントラナー・タゴールは、

 

そうした民衆の熱狂が、

憎悪や暴力と

紙一重のものであることを恐れた。

 

同年9月、ガンディーは、

コルカタにタゴールを訪ねて話し合った。

 

その時、

いつしか大勢の民衆が

タゴールの家の前に集まり、

 

近所の商店から没収してきた

外国製綿布を

焼き払って、

 

ガンディー支持を表明した。

 

 

タゴールガンディーに向かって

 

 

「べランダに出て、ごらんなさい。

 

 あなたの非暴力の追従者たちが

 何をやっているのかを見て下さい。

 

 彼らは商店から布を略奪してきて、

 わたくしの家の中庭でかがり火を焚き、

 

 気でも狂ったように、

 その周りを吠えまわっています。

 

 あれが非暴力ですか」

 

と言った。

 

そして、タゴールは、

ガンディーの『ヤング・インディア』紙に

公開書簡を送って、

 

非暴力

 

「偏狭と否定と絶望の教義」

 

と批判した。

 

 


これに対して

ガンディーは、

 

次のような

痛烈な言葉

をもって応じた。

 

詩人は明日のために生きる。

 

 そして、

 わたくしたちにも

 同じようにすることを望むのだろう。

 

彼は

恍惚とするわたくしたちの目の前に、

讃美歌をうたいながら

空に舞い上がる。

 

早朝の小鳥の美しい絵を示す。

 

これらの小鳥は

日常の糧を得たのだ。

 

そして

前夜のうちに

その血管の血潮を清め、

 

休らえた翼をもって

羽ばたき(あま)(がけ)る。

 

しかし、

力がないために

翼をわずかに羽ばたくことさえ

できない小鳥を見て、

わたしの胸は痛んだ。

 

インドの空の下の

人間小鳥は、

休憩するふうをしたときより、

 

いっそう弱々しげに

起きあがる。

 

幾百万人の人びとにとっては、

人生は

永久の眠られぬ夜か、

 

永遠の昏睡状態である。‐‐‐‐‐

 

 

彼らが

食を得るように

仕事を与えよ!

 

『食うために働く必要のないわたしが、

 なぜ(つむ)ぐのか』

 

と聞かれるかもしれない。

 

それは、

わたくしが

自分に属していないもの

食べているからである。

 

わたくしは

同胞たちを

(かす)めて生きているのだ。

 

あなたの懐に入ってくる

すべての貨幣の

跡をたどってごらんなさい。

 

そうすれば、

わたしの言うことが

真実なのを

おわかりいただけるでしょう。

 

なんぴとも

紡がなければならない!

 

タゴールも紡ぐがいい。

 

他の人びとと同じように!

 

彼も外国製衣類を焼くがいい。

 

それが今日では義務である。

 

明日のことは

神が(おもんばか)ってくださるだろう」―――

 

 

タゴールは沈黙した。

 

 


* チャルカの音楽

チャルカで 糸 を 紡ぐ  ガンディー


紡ぎ車(チャルカ)の奨励には、

多くの知識人が反発したが、

 

紡ぎ車は

インドの伝統産業の象徴であった。

 

ガンディーは、

植民地支配者である

イギリス製

綿布を焼く払うことによって、

 

イギリス支配の罪悪と

圧制に虐げられた

民衆の恐怖を一掃し、

 

同時に

国民一人びとりに

紡ぎ車を廻させることによって、

 

伝統産業を復興させ、

民族の誇り

自主自立への道

指し示そうとしたのである。

 

 

ガンディーの呼びかけに応じて、

朝夕の一定時間に、

 

都市や農村の

何百、何千という家々から

紡ぎ車の静かなうなり

 

―――ガンディーはそれを

  「チャルカの音楽」と呼んだ―――

 

が聞こえ、

 

人びとは

そのやさしい調べに耳を傾けながら、

 

静かに神への祈りを口ずさみ、

手仕事にいそしんだ。

 

 

そしてガンディーは、

共通の手仕事によって、

 

インド国民が

一切の社会的差別を超えて

 

一つの連帯感

結ばれるのを熱望した。

 

 

そして、

「非暴力による市民的不服従闘争」

の波は、

 

イギリスの植民地支配に

打ち(ひし)がれていた

インド国民の

心に火をつけ、

 

その勢いは

燎原の火のごとく

 

インド全土に燃え広がった。

 


* クイット・インディア (インドから出て行け)

 

   私は夢想家ではない


私は夢想家ではない。

 

私は実際的

理想主義者をもって認じている。

 

非暴力の宗教は、

たんに賢者や聖者たちの

ためのものではない。

 

それ同様に、

一般大衆のためのものである。

 

暴力が獣類の掟であるように、

 

非暴力

人類の法(のり)である。

 

獣類にあっては

精神は眠っており、

 

獣類は

肉体の力の他には

掟をしらない。

 

人間の尊厳は、

一段と高い法(のり)に、

 

すなわち精神の力

従うことを要求する。

 

(『ヤング・インディア』1920811日号)

 

 


3.非暴力の行者


非暴力の行者―――

 

臆病な心、

卑怯な心を持った

 

自分の

人間的弱さ

自覚して、

 

自分の弱さ

打ち勝つと、

 

真の勇気

持つことができる。

 

すると、

いかなる

不公正、不条理に対しても、

 

非暴力で立ち向かう信念をもって

行動することができるようになる

 

 

―――これは私が

下座行(路上坐禅)で摑んだ

 

「非暴力の行者」の生き方である。

 

 

いのちの森勧進・21日間下座行(平成21年8月 名古屋・栄)


 

  

㋑ 昭和35年の安保騒動のときの体験ですが、

 

  左右双方の

  暴力と暴力

  ぶつかりあいの日々でした。

 

  このような状態がつづくと、

  いつか頭が麻痺して

  暴力があたりまえになり、

 

  暴力をふるっても

罪悪感をかんじなくなりました。

 

すると敵対者をみると、

 

反射的に

 

敵だ たおさなくては

暴力で対抗します。

 

敵の数が多いと

一瞬ひるむ臆病な心、

 

逃げようとする卑怯な心を

ぐっと抑えて踏み止まり、

 

敵の弱いところを突き

撃退する―――

 

まるで野獣の喧嘩です。

 

 

野獣は生きるための

縄張り争いですから、

 

餌場(えさば)を侵さなければ

相手を攻撃しません。

 

 

ところが、

人間の欲望には限りがなく、

 

もっと欲しい欲しいで

 

弱い国、弱い人を襲い

我が物にしようとします―――

 

野獣以下といえるでしょう。

 

 

自分の経験からいえることは、

 

人間同士の

暴力と暴力のぶつかりあいは、

 

ただ

双方の憎しみを生むだけです。

 

 

 

心に残るのは

寂寥(せきりょう)とした(むな)しさだけです。

 

 

 

㋺ 安保騒動後、

  禅寺に入門し、

 

  それが縁で

  下座行(路上坐禅)

実践するようになりました。

 

 

昭和40年頃から50年代後半までは

 

道端で坐禅を組み

黙然大坐していると、

 

拝んで下さる人

沢山いました。

 

その御蔭で

自分の心は洗われ

禅修行もおおいに進みました。

 

 

 

昭和60年に入った頃から、

 

時たま

突然に殴る人がいましたが、

 

手を合わせると

2発目は殴らず

立ち去って行きました。

 

 

ところが、

平成に入った頃から、

 

暴力をふるう人が増えて、

 

手をあわせても

2発目、3発目

殴ってきます。

 

それも

手加減がありませんので、

 

すごく痛く

身体にこたえました。

 

 

 

それよりも、

それまでに経験のしたことのない、

しつこい嫌がらせ、

 

それを

黙ってうけて坐っていると、

 

難癖をつけ、

さらに

しつこく(いじ)にかかります。

 

 

これは

常日頃の(うっぷん)ばらしをこえた

 

悪質な(いじ)であり、

口の暴力です。

 

 

しかし、

その体験のお陰で

 

非暴力とは何か

身につきました。

 

 

 

㋩ ガンディーの週刊誌

『ヤング・インディア』

『ハリジャン』(19331956年まで出版)には、

 

「サティヤーグラヒ」 

非暴力の抵抗者)とありますが、

 

 

私は仏法者の立場から

 

非暴力

抵抗ではなく、

 

不公正、不条理に対して

 

猛省を促す

慈悲行である

と捉えています。

 

 

それで

「非暴力の抵抗者」

ではなく

 

非暴力の行者」

といっています。

 

 

非暴力の行者の

根底に流れるものは

 

「慈悲の心」です。

 

 

 

この慈悲のはたらき

 

身にしみこませる訓練

 

私の場合は、

 

坐禅修行であります。  

     

 

「マインドフルネスは 禅に似て 禅に非ず(下)」につづく

 

 


「マインドフルネスは 禅に似て 禅に非ず」 は、

長文の為、上・中・下の三回に分けてお伝えいたします。 

 

平成29年8月19日

 

               自然宗佛國寺 開山  佛國寺 黙雷


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもとに
連載でお伝えしています