第七話 マインドフルネスは 禅に似て 禅に非ず(上)


マインドフルネスは 禅に似て禅に(あら)ず(上) 



マインドフルネスは 禅ではない


Mベトナム出身の禅僧で、

マインドフルネスの提唱者、

ティク・ナット・ハン師が、

 

禅(Zen)を

Meditation(瞑想)

 

坐禅(Zazen)を

Sitting Meditation (坐ってする瞑想)

いわれています―――が

 

 

瞑想はではありません。

 

禅は禅であり、

 

坐禅は坐禅である。

 

 

この

「禅とは何か」

根本を誤り、

 

坐禅修行の出発点

間違えると、

ボタンの掛け違いになります。

 

そして、

ボタンをはじめから

 

掛け直さなければならなくなります。

(「第六話 坐禅は瞑想ではない
」はこちら

 

 

いのちの森勧進・21日間下座行(平成26年3月4日~24日 東京池袋駅東口)



禅とは何か?


1.黒山の鬼窟


マインドフルネス提唱者の

ティク・ナット・ハン師は、

ベトナム・フエの慈孝寺で

臨済宗(りんざいしゅう)42代の法灯を継承された
とのことであるが、

 

その、

臨済宗の祖・臨済(りんざい)()(げん)禅師は、

「黒山の鬼窟、誠に怖畏(ふい)すべし」

 

と注意されています。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

臨濟義玄

(中国河北省南城門内)

 

 


このことについて、

松尾太年老師から、

 

坐禅中、

気が抜けて

 

目を瞑って坐っていると、

 

黒山の鬼窟に落ちるぞ

 

と叱りつけられました。

 

 

そこで、

「黒山の鬼窟」とは何か―――

を調べると、

 

『坐禅儀』

 

(いにし)(しゅう)(じょう)(坐禅の修行)の高僧有り、

 

 坐して常に(まなこ)を開く。

 

(さき)の法雲の円通禅師も

亦た、

人の目を閉じて坐禅するを

()(叱る)して、

以て黒山の鬼窟と謂えり」

 

とありました。

 

 

そこで、

師匠に叱られた理由は

 

頭で理解できました。

 

 


ところが、

禅寺に入ったばかりの

青道心

(出家したまだ仏道修行の浅い人)の私には

 

朝夕の坐禅がつらく、

ついつい目を瞑って、

 

映画の主人公になった気分で

楽しいことをイメージして、

 

空想・無想の世界に遊びましたが、

 

イメージは所詮イメージであり、

 

妄想であって、

 

現実ではないので、

 

形だけはいくら坐っても

 

肝心の坐禅修行は

一向にはかどりませんでした。

 

 

そして、

この「黒山の鬼窟」とは何かが、

 

身体で成る程

納得するまでには、

 

数年の年月がかかりました。

 

 


黒山の鬼窟―――

古代インド仏教の世界観では、

須弥山(しゅみせん)という山が

世界の中心にあって、

東西南北に国土がある。

 

私たち人間世界は、

南閻(なんえん)()(しゅう)といって

須弥山の南方海上にある国である。

 

そして、

須弥山の周囲の国土の外に

海があり山があり、

 

また、

海がとりまき山がとりまいて

九山八海がある。

 

その最後の外郭を

大鉄囲山(だいてっちせん)と小鉄囲山という

環状の山脈が二重に取り囲んでいる。

 

この二重の山と山の間が

真暗な渓谷で、

 

そこには

餓鬼(貪欲な者)が棲んでいる。

 

いわゆる餓鬼道であって、

そこを

「黒山の鬼窟」といいます。

 

 


臨済宗において、

 

参禅弁道

(禅道を学び、仏道を実践修行すること)の

 

最高指南書とされている

『碧巌録』

の第42則垂示に、

 

擬議(ぎぎ)すれば

 

即ち髑髏(どくろ)の前に()を見、

 

尋思(じんし)すれば

 

即ち

 

黒山下に打坐す」

 

とある。

 

  擬議――ぐずぐず言っていること。

  尋思――ぐずぐずして躊躇(ちゅうちょ)していること。

  黒山下――幽鬼のすみか、大地獄を指し、鬼窟と同じ。

  打坐――ここでは堕在(だざい)

(悪い世界や境遇の落ちて、そこにとどまること)の意

 

 

「黒山下に打坐す」とは、

 

  迷妄の暗黒の世界を

 

  悟境と取り違えて

安住することをいいます。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

師匠:松尾太年老師

師匠は、

目を瞑って坐禅をしていると、

 

何も見えない、

聞こえない。

 

俗にいう、

見ざる、聞かざる、言わざる―――

そういう無感覚の世界を

 

安楽の場所であり、

 

悟りであるなどと、

 

万一にも

 

間違った邪見を起こすならば、

 

それは、

黒山の鬼窟、

 

真暗な谷底に落ちるぞ

 

と叱られたのである。

 

ところが

身体では成る程、

 

まさにその通りと

自覚できたのは、

 

道端に坐禅を組むようになってから

数年後のことでした。


第五話 苦行の落とし穴

 

 


臨済義玄禅師が

 

「黒山の鬼窟、誠に怖畏(ふい)すべし」

 

と注意されたのは、

 

この迷妄

(道理に暗く、誤った考えをもつこと)の 

暗黒の世界の

無感覚のところこそ、

 

悟りどころか

 

無明(むみょう)

(一切の迷妄・煩悩の根源)の 

真っ只中である。

 

 

 

阿頼耶(あらや)(しき)

(人間存在の根底をなす意識の流れ)

の本体である。

 

煩悩・妄想の発生地である。

 

この真っ暗な世界を

木端微塵に打ち砕いて

 

無碍(むげ)解脱(げだつ)

(何にものにもとらわれない自由の境地)

 

の新しい世界に飛び出てこんことには、

 

本当の悟りにはならん―――

 

これが

黒山の鬼窟

教えの意味するところであります。

 

 


2.瞑想は禅ではない


いのちの森勧進行脚(四国霊場八十八箇所「満濃池」にて平成19年7月21日~9月15日)


私は一笠一杖の

乞食(こじき)雲水(うんすい)として

全国各地を行脚し、

 

また、

道端で坐禅を組んで

 

「禅とは何か」

 

身体で(つか)みました。

 

 

しかし、

体究体得したことを

 

私の拙い文章よりも

 

臨済宗の大徳

今北洪川老師、釈宗演老師に

参禅された

 

仏教哲学者である

鈴木大拙 居士

 

「瞑想は禅ではない」

 

と確言された

一文が明確ですので

ここにご紹介します。

 

 

皆様も

きっと得るところがある

と思いますので、

 

ぜひご一読ください。

 


 

 

 

 

 

 

 

鈴木大拙 居士

『禅学への道』(鈴木大拙著、坂本弘訳)
原書英文「
An Intoroduction to ZEN Buddhism」 Daisetz T.SuZuKI

(以下、ゴチック字体部分)

 

 

「禅とは何か」―――

 

禅を

 

新思想(ニュー・ソート)」、

 

或は

クリスチャン・サイエンスを奉じる人々、

 

或は

印度教の遊行(サンニャー)(シン)

 

或いは

一部仏教者

 

によって行われる

 

或る形式の瞑想と

 

混同してはならぬ。

 

 

禅は

言葉の上からは

禅那(デイヤーナ)ということになるが、

 

それは

禅に於ける修行の実際と

合致するものではない。

 

禅の修行中、

 

宗教上の或いは

哲学上の問題について

想いにふけることもあろうが、

 

それは

偶然以上の意味を有するものではない。

 

 

禅の本質

全然

そういうところにはないのだ。

 

禅は

心そのものを鍛錬し、

 

その本来の性質

徹見することによって

 

外ならぬ

心自身の主

たらしめようとするのである。

 

 

 

この自己の心霊(しんりょう)
(心のはたらきの霊妙なことをいう)

 

真性質に徹するということこそ、

禅仏教の根本目的

をなすものである。

 

このような

禅は

 

いわゆる 

瞑想禅那以上のものである。

 


禅の訓練

 

(霊根

=人に本来備わっている(じん)(じん)微妙(みみょう)なるはたらき。

 仏性ともいう)

 

の眼を打ち開いて

 

存在理由そのもの

 

観入(かんにゅう)

(対象を心に深く観じて没入すること)

 

せしめるところにあるのだ。

 

 

 

瞑想しようと思えば、

 

どうしても

自分の思念を

 

何か或る物、

 

例えば

 

神の一者性とか、

 

その無限の愛とか

 

存在の無常とか

 

の上に集注しなければならぬ。

 

 

ところが、

 

これこそ正しく

 

禅の

避けようとするものなのだ。

 

 


禅に

 

力強く主張するものあり

 

とすれば、

 

 

それは自由

 

すなわち

 

不自然な絆からの自由、

 

の実現である。

 

 

 

瞑想といえば

 

人為的に装着した

何物かである。

 

 

 

心の本源的なはたらき

には属さない。

 

 

空飛ぶ鳥は

何を瞑想するのだろうか。

 

水中を行く魚は

何を瞑想するのだろうか。

 

鳥は飛び

 

魚は泳ぐ。

 

それで十分ではないか。

 

 

神と人との一者性に、

 

或は

現在のむなしさに

 

思いを凝らす必要が

どこにあるというのか。

 

 

日々展転してやまぬ

生活活動を

 

神を善とか

 

地獄の永劫の炎とかいう

 

瞑想によって

 

阻止する必要

 

どこにあるというのか。

 

 

基督(キリスト)教は、

一神論的である、

 

(古代インドの)ヴェーダンタは

汎神論(万有神論)である、

 

というもよかろうが、

 

禅について 

同様の主張をすることはできない。

 

 

 

禅は

一神論でもなければ

汎神論でもない。

 

 

禅は

このような称呼を

一切受け付けないのである。

 

 

従って

禅には

 

思念を集注すべき対象

というものがない。

 

 

禅は

空にただよう一片の雲である。

 

釘でとめることも

(ひも)で捉えることも

できない。

 

おのが好むままに動いて行く。

 

 

どれほど瞑想を凝らしても

 

禅を

一所に止めることはできない。

 

 


瞑想はではない。

 

汎神論も一神論も、

 

禅に

集注すべき主題を

与えはしないのだ。

 

もし

禅が

一神論的であるならば、

 

禅は

その学人に対して、

 

神的光明の遍照裡にあって

 

一切の差別相の亡ぜられる

万法一なるところの

瞑想するように教えるかも知れぬ。

 

 

 

また

禅が

汎神論的であるならば、

 

野に咲く名もない草花も

神の栄光を宿しているのだ、

と説くことであろう。

 

 

ところが

禅の説くところは

次の如くである。

 

「万法が一に帰するものならば、

 

 その一はどうなるのか」。

 

 

禅は

各自の心を

 

自由無碍

ならしめようとするものである。

 

 

一とか

一切とかの

観念すら、

 

精神の本源的自由を脅かす

障礙(しょうがい)であり陥穽(かんせい)である。

 

 

それ故に

禅は、

 

狛子(くし)(犬)も神であるとか、

 

麻三斤(まさんぎん)も神的なものであるか

 

という概念に

 

思念を集注せよと教えはしない。

 

 

それを()えてするならば、

 

禅は

失われているのである。

 

 

禅は

端的に

 

火を暖かいと感じ

氷は冷たいと感ずる。

 

我々が凍てつくような日には

身震いをして

火の傍をよろこぶ、

 

そのままである。

 

 


ファストの道破するように

 

感情こそ一切である。

 

すべて

我々の論議は

実在に触れることはできない。

 

ところで

この感情という言葉は、

 

ここでは

その最も深い意味に於て

 

或は

その最も純粋な在り方に於て

理解されなければならぬ。

 

「これは感情である」

 

といってさえ、

 

もはや其処には

 

禅はないのだ。

 

 


禅は

あらゆる

概念構成を排する。

 

把捉しがたい理由は

此処にある。

 

そこで、

もし

禅の提唱する

瞑想ありとすれば、

 

それは、

事々物々を

あるがままにとらえよ、

 

雪は白く

鴉は黒いところを見とどけよ、

 

ということになる。

 

 

瞑想を云々するとき、

我々は大抵

その抽象的な性格を考えている。

 

すなわち、

 

瞑想とは

何か或る高度に

一般化せられた命題に

 

精神を集注することである、

と考えている。

 

そして

そのような命題は

 

その性質上

必ずしも

具体的な生活 

密接なつながりを

もつものではない。

 

 


禅は

知覚し

 

或は

感ずるものであって、

 

抽象したり

瞑想したり

するものではない。

 

 

禅は

徹底して

はたらきそのものであり、

 

そこには

もはや

見るもの見られるものも

存しないのでる。

 

これに反して

 

瞑想は

明らかに

二元的であり、

 

したがって 

皮相的であるを免れない。

 

 

 


一批評家は

 

禅を

 

「聖イグナチウス・ロヨラ」の

『霊的訓練』の

仏教版という風に見ている。

 

この批評家は

どうも仏教的な事物に

 

基督教的類似点を

見たがる傾きがあるが、

これなどもその一例である。

 

禅について

一見識を有する程のものならば、

 

この比較が

見当外れも甚だしいことを

直ぐに気付くだろう。

 

外見からして

禅の修行

 

イエス会(イエズス会)創始者の

提唱する修行との間には

 

類似点らしいものは

何ひとつないのである。

 

聖イグナチウスの

疑心と祈祷は、

 

禅の見所からすれば、

 

敬虔(けいけん)な人たちのために

丹念に織りあげた

数々の想像に過ぎない。

 

実際それは

頭上に瓦を積み重ねたようなものであって、

 

精神生活の上に

何等

真の利益

もたらすものではないのだ。

 

 

只、

これ等の

「霊的訓練」が

 

五停心・九不浄観・六隨念・十偏処等の

小乗仏教に似通った点があることは

認めることができる。

 

 

禅は

 

精神(マインド)謀殺(マーダー)、呪うべき無為の瞑想」

 

意味するものと考えられることがある。

 

 

これは、

『日本の宗教』の著者として 

知られているグリッフィスの言葉である。

 

 


彼が「精神の謀殺」という

真意は知る由もないが、

 

禅は

思念を一事に集注せしめ

 

或は

催眠せしめることによって

 

精神のはたらきを封殺するもの

とでも考えているのだろうか。

 

 

ライシャウァー氏は

その著書に於て、

 

禅は

 

「神秘的自己陶酔」

 

であると主張し、

 

このグリッフィスの見方を

ほとんど裏書している。

 

 

彼はスピノーザが

神に陶酔したように

 

禅は

いわゆる「大我」に

陶酔する

とでも考えているのだろうか。

 

 

ライシャウァー氏の

「陶酔」という意味は

あまりにも明瞭ではないが、

 

禅は

不当にも

 

個別の世界に於ける

窮極の実在としての

「大我」の思念に

 

没頭している

考えているのかも知れぬ。

 

 

批判の眼なき

禅の観察者の

浅薄さ加減にいたっては

只々驚くの外はないのだ。

 

 

実のところ

禅は

 

謀殺するにも

「心」を有しないのだ。

 

 

従って

禅には

 

「精神の謀殺」

などというものは

有り得ない。

 

 

禅はまた

隠れ家として

執着することのできるような

 

自己(セルフ)

をも有しない。

 

 

従って

禅には

 

また陶酔の

よりどころとなるような

「自己」というものも

ないのだ。

 

(『禅学の道』第2章禅とは何か・p31p34から引用)

‐‐‐‐‐<以下略>-‐‐‐。

 

 


鈴木大拙居士の

『禅学への道』

 

小智をはたらかせず、

 

身体で

何度も何度も、

 

繰り返し繰り返し

読めば

 

意おのずから通ずで

 

自然に

身体にしみこんできます。

 

 

ただし、

鈴木大拙居士の

「禅とは何か?」を

 

自分自身の

禅道修行の杖とすれども、

 

そこに

縛られず、

 

大拙居士の殻を

木端微塵に打ち砕き、

 

自己の仏性に目覚

仏性を磨いて

 

真個の独立人として

 

無碍自在のはたらきをする―――

 

ここに

道端坐禅で摑んだ

 

禅があります。

 

 

自灯明 法灯明

 

自らを灯明とし、

自らを拠り所として、

他を拠り所とせず。

 

法を灯明とし、

法を拠り所として、

他を拠り所とせず。(釈尊)

 

 


「マインドフルネスは禅に似て禅に非ず」は、 

長文の為、上・中・下の三回に分けてお伝えいたします。

 

 

          平成29年8月5日

 

                  自然宗佛國寺    開山  愚谷軒 黙雷


 

自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもとに
連載でお伝えしています