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第六話 坐禅は瞑想ではない.



坐禅 は 瞑想ではない


眼を張らず、細めず通常に開いて

 

前方三尺の処に自然に落とす。

 

坐禅は瞑想ではない。

 

(曹洞禅の大徳・沢木興道老師)


禅寺の門を叩いて57年。

寺の禅坊主としては規格外であるが

 

師匠に

本物の禅坊主になりたければ、野垂れ死に覚悟で 道端に坐れ」 といわれ、

 

愚者の一徹で、 毎年、繁華街の雑踏の中で 坐禅を組むこと50

 

 

また、一笠一杖の 乞食雲水として 全国各地を行脚

 

 

その中でも、昭和57年から平成元年迄の 全国行脚七年有半は、

 

自己の根本改造 目的として、野垂れ死に覚悟の 廻国行であった。

 

 

 

愚の愚なる われはこれしか できぬなり

 

黙々と歩き  黙々と坐る

 

 

 

この実践体験から、 はっきりいえることは、

 

 

禅は禅であり、坐禅は坐禅である。

 

瞑想ではない 

 

 

ということである。

 

 


いのちの森勧進21日間下座行(平成26年3月東京池袋駅前)


 

釈尊 成道(さとりの完成)の 正因(直接の原因)は

坐禅に在り、

 


正覚(正しいさとり)は、

仏性を直観せしに在り―――

 

 

 

仏性とは、

人間誰もが 生まれながらに持っている 仏陀になる本質

 

「真実の自己」のこと。

 

 


坐禅の目的は、

この仏性、

 

即ち

 

真実の自己を発見し、

真実の自己を開()し、

真実の自己を確立して、

()の独()になることにある。

 

開発(かいほつ)=あらわれ、動き出すこと。

 真個(しんこ)=真実の。ほんとうの。まことであること。

 

 独立(どくりつ)=他に影響されず、超然として存在すること。



一切衆生悉く仏性有り、

 

煩悩覆うが故に不知不見  (釈尊)


坐禅は 何のためにするのか?


坐禅は、 自分が 迷える凡夫だと自覚し、 自分の 人格の完成を大目標とする

 

 

これは三つに分けていうと、

 

 

第一は 誰もが仏陀釈尊になれる―――

 

 

     私たちは迷える凡夫であるが、

 

     仏陀釈尊と寸毫(すんごう)かわらぬ本質(仏性)を持っている。

 

 

     そして、これは坐禅によってのみ 体現できる。

 

 

 

仏陀(ぶっだ)とは覚者。

 

真理に目覚めた人。

 

(ぶつ)は仏陀の略。

 

 

(ほとけ)は、仏陀の和名。

 

 

釈尊は、 真理に目覚めたから「仏陀」 呼ばれることになったのである。

 

 

したがって、釈尊でなくとも 真理に目覚めた人であれば、誰もが「仏陀」になれるのである。

 

 

だから仏法は、 私たち皆が 仏陀になるため 教えであるといえる。

 

 


第二は、その素晴らしい自分の本質を坐禅によって徹底勘破 (* *(本質を見抜いて悟り切る)

 

          すなわち  大悟大徹する。

 

 


第三は、仏陀釈尊と等しい智慧も徳も備わっている 自分の本質を発揮し人格化する


以上の三大目的の下に

 

坐禅を実修実践する。


 

 坐禅の効能としては、

 

 知恵が明快になる.

 

 心が堅固になる。

 

 人情が温良になる。

 

 

 

副産物としては、

 

 健康が増進した。

 

 病気がよくなった。

 

 心にゆとりができた。

 

 短気だったが気長になった。

 

 仕事の能率が上った。

 

 家庭が明るく和やかになった―――等々 枚挙にいとまがない。

 

 


坐禅は、けっして難行苦行ではない。

 

特別な人々だけのものでもない。

 

 

自分とは何か―――

 

真実の自己を発見し、

 

真実の自己を開発し、

 

真実の自己を確立し

 

真個の独立人となりたい――― との求道の志があれば、

 

日々の生活の中で誰もができる それが坐禅である。

 

 


昔はも凡夫なり 凡夫も未来はなり。

 

あなたも仏陀になれる。


坐禅 と 瞑想の混同


このところ、佛國寺によく、ヨーガの教師や体験者が、

 

また、スリーランカの仏教僧・アルボムッレ・スマナサーラ師や

 

マインドフルネスの提唱者ティク・ナット・ハン師に傾倒される方々が来山され、

 

佛國寺の「いのちの森」で 瞑想させてほしいといわれる。

 

 

この方々のお話をお聞きしていると、

 

坐禅瞑想混同 れているので、「瞑想」(冥想)とは何かを改めて字引を引くと、

 

 

「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと」―――とある。

 


では、仏教語辞典ではどうかと

 

手元にある―――

『望月佛教大辞典』(全10巻)、

『総合佛教大辞典』(全3巻・法蔵館)、

『織田佛教大辞典』(大蔵出版)、

『模範仏教辞典』(大文館)、

『仏教哲学大辞典』(聖教新聞社)、

『仏教語大辞典』(石田瑞磨著・小学館)、

『仏教日常辞典』(増谷文雄、金岡秀友著・太陽出版)には、

 

<瞑想・冥想>という仏教用語は無い―――。

 

 

 

ただ、中村元著『佛教語大辞典』(東京書籍)には、<禅とは、瞑想の意> とある。

 

 

また、中村元氏が編者に加わっている『岩波仏教辞典』では、

 

「仏教の修行の一つ。冥想して身心を統一すること」とある。 

 


そして、同辞典には、

 

冥想瞑想とも書く。<瞑想>は中国の言葉であるが、

  この語を 仏教のの意味に用いているのは 支遁 (しとん)(東晋時代の義学僧、314366)である。

 

 その詩の一節に 

 「逍液にして空無に帰す。無や()た何ぞ(いた)まん、万殊(ばんしゅ)、一塗帰す、 道会して冥想を貴ぶ」とある。

 

(くう)に徹底し、大道に合致することを 冥想と呼んでいる。--‐‐‐(略)‐‐‐‐。

 

 

しかし、伝統的な仏教では、それ以後、この語は ほとんど用いられていない

 

 

近代仏教が ヨーロッパにおこり、Meditationと訳すことが多くなった。

 

ことに、近代、の実修が西洋でも盛んになり、そのMeditationが邦訳されて瞑想>と呼ばれている。

 

しかし、西洋の学者の中には、Meditationと訳すことは不適切であると考え、

 

サンスクリット語やパーリ語をそのまま用いたり、

 

あるいは Zen,Zazen-‐‐‐などの訳もある-‐‐‐とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

眼を張らず、細めず通常に開いて

 

前方三尺の処に自然に落とす。

 

坐禅 は 瞑想ではない。

 

 

(曹洞禅の大徳・沢木興道老師)

 

 


昨今、著名な原始仏典翻訳者や 仏教学者、また、こまったことに禅寺の僧侶の中にまで、

 

禅(Zen)、 坐禅(Zazen

 

瞑想(Meditation ゴチャマゼにしている傾向が見られる。

 

 

そして、この思想的、学問的混乱が 瞑想ブームの風潮中で、

 

人間関係の不安、

 

精神的な不安、

 

健康に関する不安等々を抱えて生きる現代人に 

 

坐禅瞑想  混同させる原因となっている といえる。

 

 

 

・冒頭でも述べたように、

 

であり、

 

坐禅坐禅である―――

 

瞑想ではない

 

 

このの根本問題 あやふやにしている 禅寺の僧侶の責任は大であり、禅寺僧侶の怠慢であるといえる。

 

 

そこで、私は、禅僧の端くれとして、

 

全国各地を行脚し、

 

また、

 

下座行(路上坐禅)50年の実践の体験から、

 

 

とは何か?」、

 

坐禅とは何か?」

 

をはっきりさせ 皆様が迷いの道を歩まないよう、お役に立ちたいと思い 筆をとりました。

 

 


万縁万師 の 道端坐禅


下座行(路上坐禅)50年は、無師独坐 坐禅修行でしたので、

 

坐禅の指導書『坐禅儀』を 師匠として、禅語』を教科書に 自分で自分を教育しました。

 

 

・繁華街での坐禅は、街中の喧騒を喧騒のまま、それに囚われない工夫をこらすことができ、

 

  また、雑踏の中での坐禅は、畳の上での坐禅とは違い、

 

 暴漢に殴られて痛い思いをする時もあり、難癖(なんくせ)を付けられたり悪戯(いたずら)されて(いや)な思いをする時も多々ありますが、

 

 

 その時その場をにして、

 

 禅語の教えを実際に活用し、

 

 自分と自分の 真剣勝負に勝つ工夫をすることができました。

 

 

 

・道端での 坐禅体験は、

 

  結果として 無師独坐ではなく、万 縁 万 師 だったということが言えます。

 

 


道端で 弥陀に抱かれて 坐禅する

 

往き来の人を み仏として  (黙雷)

 

 

歌にある「弥陀」の意味は 森の和尚からの手紙・第二話南無阿弥陀仏  をご覧ください。


 

次号 第七話「正しい坐禅の仕方」つづく

 


平成29年7月1日

 

              自然宗佛國寺      開山  愚谷軒 黙雷


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもとに連載でお伝えしています

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