第五話 苦行の落とし穴(通算No.31)


釈尊とともに歩む


行脚55年―――

一笠一杖の乞食(こつじき)雲水として全国各地を遊行し、

日本の仏教各宗派の門を叩き教えを乞うて感得したことは、

 

「仏法の根本である 仏祖釈尊の原点に帰り、

釈尊の原点に立って、釈尊とともに歩む」

 

であった。


苦行の落とし穴


苦行は、

ひとつまちがえると

死ぬこともある。

 

だが、

死んでしまっては、

もうどんなにしても

幸福にあえないから、

 

命を捨てるような苦行は

愚かなことだと知る。

 

それでなくとも、

身体を壊して

日常生活のはたらきに支障をきたし、

何んの益もないこと

がわかったので、

 

私は

下座行や断食行、滝行に

見切りをつけ

 

苦行を捨てました。

 


いまひとつ苦行には、

正常な社会生活に害となる

危険性をはらんでいます。

 

それは、

全国行脚七年有半(昭和57年~平成元年)中、

全国各地の霊場で

滝行を経験しました。

 

滝行の時、

真言密教の行者から

真言や陀羅尼を唱えるように

教えていただいたが、

 

私は真言、陀羅尼に

なれていないので

「南無不動明王」を

声高くテンポよく

繰り返し唱えました。

 

すると

心がだんだんハイテンションとなり、

忘我の

神秘的合一感を体験しました。

 

 


たしかに、

真言や念仏、題目を

唱え続けて、

 

一つのことに

心を結びつけて行けば、

 

心は他から離れていき、

 

また

沈んだ気持や

怠け心が

起こりにくくなることは

間違いありません。

 

ところが、

行場で

他の行者を観察していると、

 

トランス状態

神憑(かみがか)り状態に

陥いる人がいました。

 

この行法は、

ひとつ間違うと

 

通常の意識が失われ、

 

明らかに

常とは異なった精神状態

陥る危険性を含んでいます。

 

それで

滝行などの行法は、

 

正師がすぐ脇にいて、

直接に指導してくれるのでないかぎり

絶対に一人でやるべき行法ではない 

と思います。

 


目を閉じる瞑想の危険


繁華街の雑踏に

坐っていると(下座行)、

 

街中の喧騒に

心が散乱し、

 

気が抜けて

煩悩妄想がわきあがってくる。

 

そこで、

坐禅では

かたくいましめられている

目を閉じて

瞑想する行法

試してみました。

 

目を閉じて

瞑想に入って

しばらくすると、

 

街中の喧騒から離れて、

日常生活から

遠くへだった世界をさまよい、

 

いつか夢想の世界

住していました。

 

夢想は、

夢のようなことを

取り留めもなく、

 

次々に

頭に思い浮かべる

空想の世界ですから、

 

心はしばられることなく

自由自在で、

 

何処へでも

好きな所に

飛んで行くことができます。

 

また、

夢はかならずかなえられて、

 

「夢のようなバラ色の幸福生活」

 

に遊び楽しむことができました。

 

 

豪雨の中での21日間下座行(平成22年2月4日~名古屋)


ところが、

正気にもどると

 

ガクンときて

身体の芯(しん)が

すごくつかれてだるくなった。

 

そして、

この夢境に遊ぶ状態を

何日もつづけると、

 

しまいには

体調を崩し

日常生活のリズムが狂ってきました。

 

何故かと、

その原因を考えてみると、

 

瞑想中、

忘我の境に

没入しているようだが、

 

その実、

頭の中は

夢想の世界に遊び、

 

脳味噌が
四六時中

休むまもなく、

 

こきつかわれている 

ことに気付きました。

 


それだけではなく、

目を閉じる

瞑想の危険は

 

心象(イメージ)の流れを

積極的に変えようとせず、

 

次々と頭に浮かぶ

イメージにまかせる。

 

言葉をいいかえると、

 

夢における対象が

非実在で

 

実体のない

夢の世界に

どっぷりつかりつづけていると、

 

現実の世界と夢想の世界が

ゴッチャになり、

頭がおかしくなってきて、

 

正常な社会生活ができなくなる

と気付いたので、

 

目を閉じる

瞑想法を中止しました。

 

この点については、

次回「坐禅は瞑想ではない」で

くわしくお話しをしたいと思います。

 

 


頭を空ッポにして坐る


今から十数年前、

仏縁深き

中邨秀雄氏の短文が

 

『日本経済新聞』(平成11220日・夕刊)の

「あすへの話題」に掲載されました。(下記の文面)

 

【「雑踏の中の座禅」中邨秀雄―――

大学病院の先生に聞いた話だが、

 

例えば

体の中に小さながん細胞があったとする。

 

これを気に病み、

心配すればするほど

細胞は繁殖する。

 

絶対にがんにならないと

思い込んでいれば、

細胞の繁殖はすすみにくい。

 

こういう説があるのだという。

 

まさに病は気から

ということであろう。

 

そして現在社会では、

諸病の根源は

ストレスであるとも言える。

 

ストレスを

抱えていない人間はいない。

 

人間関係の悩み、

日々の仕事の成否、

経済や社会に対する不安感。

 

それらすべてが

ストレスとなって

襲いかかってくる。

 

現代社会では、

これらのストレスから

逃れることは

不可能なのである。

 

しかし、

ストレスとは

あまりにも

正面から対峙(たいじ)していれば、

 

身心に変調をきたすのは

目に見えている。

 

そこから逃れる方法は

ないものか。

 

それは、

笑いを創造する事だ。

 

心の底から

笑っている時、

人は何もかも忘れてしまう。

 

24時間社会と闘う中での、

ほんのちょっとしたすき。

 

不安や心配から

一瞬解放される時間。

 

それが

笑うという行為なのである。

 

私の知り合いの坊さんが

 大阪の繁華街のど真ん中で

 百日間座禅を組んだ。

 

 なぜ山寺ではなく

 街中でなければならないのか

 と私は問うた。

 

 お坊さんの答えは

 

「山寺の静寂の中で

 雑念は自然に消えて行く。

 

これは

だれにでもできることだ。

 

すざまじい雑踏の中で

頭を空にする。

 

それこそが

修行なのだ」と。

 

我々は日々、

ストレスという

雑踏の中に身を置いている。

 

そこから

一瞬でも抜け出すことが

ストレス解消

ということになろう。

 

一日に5分でも10分でも、

一週間に一度でも、

 

笑って頭を空にすることで、

ストレスを

回避する事が出来るかも‐‐‐‐‐。

 

雑踏の中で

座禅を組むことと、

笑うという行為は

似ているのかもしれない――――

(吉本興業社長)】

 

 



中邨秀雄様が書かれた新聞記事と、その時の百日下座行


これは、

私が大阪梅田で

平成10831日から

100日間坐った時の体験談を、

 

中邨社長が

「雑踏の中での座禅と

お笑いとは

相通ずるものがあるのではないか‐‐‐‐」

 

ということを 

話されたものです。

 


無我の境には ほど遠く


雑踏の中で

坐っていると、

 

正直

なかなか無念無想にはなれません。

 

雲水修行当時、

 

兄弟子から

「馬鹿になれ、馬鹿になれ」

「死ねや死ねや」

といわれました。

 

そのいわんとする意味は

十分理解できましたが、

 

畳の上の坐禅ではなく、

 

路上での座禅には

危険な目に会うことがある。

 

例えば、

突然に

殴られた瞬間、

カッとなり、

 

からまれたり、

難癖(なんくせ)を付けられると

 

思わず腹がたったりして

 

到底

「無我の境」

坐っていることはできません。

 

また、

坐行中、

 

自動車のブゥーという音や

人々の会話の中身が

耳に入ってくると、

 

その音、

その声にひっかかり、

とらわれると

気が散ります。

 

その気が抜けたところを

にして

 

次から次へと

煩悩妄想がわいてきて

 

坐禅三昧

というわけにはまいりません。

 

 


脳味噌を休ませる


坐行を

()まずたゆまず

つづけて行くと、

 

いつのまにか、

「頭を空ッポにして坐る」

下坐行法を体得しました。

 

この坐行法のコツを摑むと、

 

音にとらわれず、

 

音のあとをおわず、

 

音にひきずられず、

 

音を聞き流す。

 

また、

会話の声にひっかかり、

その中に引きずり込まれない。

 

会話の中味のカケラも

頭に残さない。

 

頭を空ッポにする状態

自分を置くことができ、

 

雑踏の中でも

自然のうちに

禅定
(坐禅を組み、静かに黙然黙想して精神を統一し、

 真理を観察したり、無念無想の状態に達したりすること)

 

に入ることができるようになりました。

 

 


さらに

大きな収穫は

 

「頭を空ッポにして

 脳味噌の活動を停止して、

 脳味噌を休ませる」

 

コツを

知らず識らずのうちに

会得していたことです。

 

何処がどうとは、

うまく説明できないが、

 

このコツを摑んでからは、

日常生活の中で

 

目の前の事々物々から

一歩退いて対応する

 

心のゆとりが

生まれてきました。

 

そして、

 

頭を空ッポにして

時々

脳味噌を休ませる

コツを会得してからは、

 

それまでの

固定観念、

先入観に囚われることなく、

 

娑婆世界の物事を

一歩退いて

 

正見観察

することができるようになり、

 

失敗して悔むことも

少なくなりました。

 

そして、

心は水の如く、

 

まるい器に入れると

まるくなり、

 

四角な器に入れると

四角になる―――

 

その時その場に応じて

任運自在に対応し、

その時その場に成り切る。

 

しかも

「本来の自己」(仏性)(第17話 心の主人公)

 

見失うことなく――――

 


素直な本性そのままに


自分の心を

飾ることはない。

 

自分の素直な本性

そのままにさらけ出して

淡々と生きる―――。

 

腹が立った時は、

合掌しながら

腹の中で

思い切り腹を立てる。

 

泣きたい時は、

涙が枯れるまで

泣いて 泣いて 泣きつくす。

 

嬉しい時は、

とことん喜ぶ。

 

笑う時は、

心の底から笑う。

 

だが、

問題は、

その事に

何時までも囚われず、

あとに引きずらず、

 

心は綺麗さっぱり、

すっきりしゃんとする

ことが肝要であります。

 

()うは言うものの

気が抜けると

 

煩悩の雲に覆われて、 

その所在がくらまされ、

 

油断すると

妄想の曇りが

眼にかかって

 

物事を

正見することができず、

 

右往左往している

自分がそこに居る。

 

そのような

私ですが、

 

釈尊の人間教育学を

人生の指針として、

 

釈尊とともに歩む

ようになってからは、

 

案外早く軌道修正して

「本来の自己」(仏性)

取り戻すことが

できるようになった

今日この頃でございます。

釈尊の人間教育学は、

 

幸福生活への道標(みちしるべ)


あなたも仏陀になれる


根本仏法は、

 

凡夫
(煩悩・業・苦に束縛され、
迷いの境界にある人)

といえども、

 

自分の弱さ、もろさ、愚かさを

自覚し、

 

素直な心で、

仏祖釈尊の原点に立ち、

 

釈尊に直結直入(じきにゅう)して

『釈尊の人間教育学』を学び、

努力精進すれば、

 

 

誰もが

 

仏陀(真理に目覚めた人)になれる

 

教えである。

 

 


釈尊の人間教育とは、

 

個人として、

社会として

 

何が価値のあるものであるか

を知らせ、

 

価値のない状態から

次第に高い価値へと

人々を導いて、

 

最終的には、

 

理想的な 

個人や社会をつくることにある。

 


釈尊からみた

人間の宗教的な価値の区別とは、

 

大きく分けると、

凡夫(非聖者)と

仏陀(聖者)である。

 

簡単にいえば、

 

迷っている人と、

悟っている人と

 

いうことである。

 

そして、

だれもが、

 

釈尊の人間教育学を

依り所として

努力精進すれば、

 

凡夫から

仏陀になれる

と説いておられるのである。

 

生まれによりて

聖者となるのではない

 

生まれによりて

非聖者となるのではない

 

人はその行為によりて

聖者となるのであり、

 

その行為によりて

非聖者となるのである。 

(釈 尊)


 

「第六話 坐禅は瞑想ではない」(通算No,32)につづく


 

平成29年6月3日

 

           宗教法人 自然宗佛國寺  開山 佛國寺 黙雷  

 



自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもとに
連載でお伝えしています