第四話 四苦八苦は苦行で解決できないと知る


釈尊とともに歩む (通算No.30)


行脚55年―――

一笠一杖の乞食(こつじき)雲水として全国各地を遊行し、

日本の仏教各宗派の門を叩き教えを乞うて感得したことは、

 

「仏法の根本である 仏祖釈尊の原点に帰り、

釈尊の原点に立って、釈尊とともに歩む」

 

であった。


四苦八苦は苦行で解決できないと知る


苦行は


禅定

(坐禅を組み、静かに黙然黙想して精神を統一し、

 真理を観察したり、無念無想の状態に達したりすること)

とともに、

 

古代インドの宗教家によく用いられた

修行方法であった。

 

仏法とならぶ大宗教である

ジャイナ教の修行者は

激しい苦行をすることで有名である。

 

第二話(通算No.28

『釈尊とともに歩む』でもふれましたが、

 

ジャイナ教では

肉体を徹底的に苦しめ
憔悴(しょうすい)
(やせおとろえる)させることにより、

 

肉体が滅びて

霊魂が純粋となり、

 

完全な解脱(げだつ)を得ることができる

と信じられ、

断食行による死すら賛美しました。

 

 

釈尊が初めて説法をしたところと推定され、

仏法が第一歩を記した記念すべき場所。

アショーカ王が建てたダルマラージカ・ストゥーパの基壇
(サルナート:鹿野苑 インド)


釈尊は後年、

 

「いかなるものでも

 

 自分が行じたような

 

 苦行をするものはない」

 

といっておられるが―――

 

苦行の結果、

釈尊は文字通り

骨と皮だけになり、

 

眼はくぼみ、

皮膚は黒くひからび、

がい骨のようになったという。

 

そして、

釈尊は苦行の(むな)しさを知って

苦行を捨てた後、

 

菩提樹下で

「さとり」を開かれ、
(さとり=迷いを去って永遠普遍の真理に目覚めること)

 

私たち凡夫に

 

五欲煩悩、

即ち、

欲望を

解決する方法を

開示されました。

 

 


苦行に入り、苦行を捨てる


釈尊の激しい苦行とは

(くら)(もの)にならないが、

下座行(路上坐禅)50年の

実践体験から得た結論は、

苦行は

身体を壊して、

正常な働きを失わせること大にして、

 

人生の問題を解決する道

ではない―――

 

と自得しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下座行50年
最後の下座行
平成26年3月4日~24日

(東京・池袋駅東口)


繁華街の路上に

21日間、

ときには

100日間

黙然大坐する下座行は、

 

身体を痛め、

極度の禁欲で

心を鍛えることによって、

 

五欲煩悩、

つまり、

欲望を

自力で抑え込み、

 

その結果、

身心は清澄となり、

欲望が起こることは

著しく減少しますが、

 

10年、20年、30年、40年、50年と

路上に坐ったにもかかわらず、

ついに

身体を壊して

自得したことは、

 

欲望が

最終的には

なくなることがないことに

 

気づいたことであります。


たしかに下座行中は、

欲望は少なくなるし、

 

たえずわきあがってくる欲望を

かなり効率よく

抑え込むことができます。

 

だが、

これは

モグラ叩きのようなもので、

 

一切の欲望の

最終的な解消には、

いつまでたっても至らなかった。

 

第一話(通算No,27

『釈尊と共に歩む』の文中で述べたように、

 

結局

身体を壊して

得たものも大きかったが、

しかし、

日常生活のはたらきに支障をきたしては、

何のための

仏道修行かわからない。

 

そして、

痛い思いをして

やっと

 

自力(じりき)我執(がしゅう)

 

自縄自縛(じじょうじばく)から解放されて

苦行を捨てることができました。

 

 


その時、

私が直面していた

重くて堅い壁の何処かに、

 

たとえわずかながら

穴をうがつことが

できたような感じを得ました。

 

何処がどうということではないが、

 

もやもやとして、

重苦しかったものの

一角が少し破れて

次の新しい視野が見えてきた

ことだけは確かであった―――

 

すると、

仏法は遠くにあらず、

わが足下にあり

とわかり、

 

仏法がすんなりと

腹におさまりました。

 

それからは、

 

肩の力も抜けて、

 

気楽になり、

 

力まず、

 

気張らず、

 

気取らず、

 

自分の弱さ、(もろ)さ、愚かさ

さらけだして生きることが

 

できるようになりました。


苦行のための苦行


下座行は、

五欲煩悩を解消する手段として

始めた苦行でしたが、

 

いつしか

苦行事態が目的となっていました。

 

そして、

自己の心の深部をのぞくと、

 

自分が

こういう人のなかなかできないことを

しているのだ―――

 

という自己満足、

否、

自己顕示欲

はたらいていることに気付きました。

 

・釈尊が

苦行を捨てた理由は、

 

そういう

 

苦行のための苦行

 

に陥るのを恐れたからだと思い―――

 

下座行はもちろんのこと、

断食行、

滝行、

寒行などの苦行を捨てた―――

 

その瞬間、

 

釈尊の根本仏法が、

 

すとんと腹におさまりました。

 

 

すると、

心の黒雲が晴れて

 

腹の底から、

 

ああ!

俺は愚かで、

罪深い凡夫だった。

 

俺は弱くて

脆い未熟者だった

と自覚しました。

 

そして、

凡夫は凡夫と自覚して、

 

小智をはたらかせず、

素直な心で、

 

仏祖釈尊の原点に立って、

釈尊に直結直入(じきにゅう)して、

 

仏祖正伝の根本仏法を学び、

日々、

倦まず弛まず

努力精進すれば、

 

一歩一歩

釈尊の境地に近づくことができる

 

との確信を得ることができました。

 


難行中の難行 ―当たり前のことをあたりまえにやる難しさ―


ところが、

日常生活の中で

根本仏法を実践するとなると、

 

これが

本当の難行だと

気づかされました。

 

たとえば

八正道(八つの正しい道)の

実践活用の難しさです。

 

八つの正しい道は、

その一つ一つが

仏法の理想にかなった道で、

欲望を滅ぼすための

処方箋です。

 

 


八正道を簡単に説明すると、

 

一、   正見(しょうけん)―――

正しい見解、正しい世界観、人生観。

つまり

物事を正しく看取(かんしゅ)(じっくりと見る)する事です。

 

 

善いこと、悪いことを

正しく見て、

正しく知るということです。

 

善い行いには

善い結果が得られるし、

 

悪い行いには

悪い報いがあるという

善悪因果を

正しく知ること、

 

さらに

自己中心的な

我見(がけん)を持たない、

 

ということが

正見の意味です。

 

 


二.   正思惟(しょうしゆい)―――

正しい考え方、正しい意志決定、決意。
これは思慮分別に誤りなき事をいいます。

正しい考え方を持ち

貪欲(とんよく)(貪りの欲望)や

瞋恚(しんに)怒り)の心を持たず、

 

常に寛容と慈悲

 

つまり、

 

いたわり おもいやりの

心をもって物事を考える

ということを意味します。

 

この正しい考え方から、

 

次に述べる

正しい言葉(正語)や

正しい行い(正業)が

出てくるのです。

 

故に、

「正思惟」というのは、

正しい意志や

決意であり、

 

私たちが

何かしようとするときの

正しい行動を

 

左右するものです。


三、   正語(しょうご)―――

これは

言語に虚妄なく、

適時に適語を発する事です。

 

わかりやすくいえば、

 

(うそ)をつかない、

二枚舌を使わない、

悪口をいわない、

役に立たない言葉は

(つつし)むということです。

 

また、

積極的には、

 

真実を語る、

 

愛語(あいご)(愛情のこもったやさしい言葉)でほめる、

 

和敬=(やわらぎ)の心をもって

他を尊び(うやま)う言葉のみを語る―――

 

 

ということです。


四.   正業(しょうごう)―――

正しい身体的行為です。

 

その第一は

不殺生―――

 

むやみに

いきものを殺さない、

傷つけない、

 

むしろ

その生命を助けたり、

保護したりすることです。

 

むやみに

と申しましたが

 

私たちは、

日々、

多くの生命をいただいて

生きています。

 

だからこそ、

すべてのものには

生命があることを自覚し、

 

その生命を

全うさせるという

心掛けが大切だと思い

むやみに

といいました。

 

これは、

生きものだけでなく、

 

ものを粗末にせず、

また、

使い捨てせず、

大切に扱う

 

ということも

不殺生につながる

大切な行為です。

 

ものには、

それぞれの役割や使命がある。

 

 

その役割や

使命を果たさせるために、

無駄にしてはならない

ということです。

 

 

次に不偸盗(ふちゅうとう)―――

 

これは単に盗みをしない

ということばかりでなく、

 

むしろ人に対して

恵みを与える

ことも含みます。

 

 

 

最後に不邪婬(ふじゃいん)―――

 

みだらな性行為をしないで、

正しい夫婦関係を保つことを指します。

 

―――この三つが

正業の内容です。

 


五.   正命(しょうみょう)―――

これは「正しい生活」ということです。

 

この正しい生活をするための、

正しい職業も含みます。

 

これは正しい手段で

生活の糧を得るということです。

 

また、規則正しい生活をすること―――

 

毎日の24時間を

規則正しく習慣づけ、

 

何時に起き、

何時に寝る。

 

あるいは

仕事や勉強をする時間、

運動や娯楽の時間、

 

食事の時間や量などを決め、

 

 

それに従った生活をするということです。

 


六.   正精進(しょうしょうじん)―――

正しい努力、勇気です。

 

これは何事に対しても、

正しい努力を

絶え間なく

続けていくということです。

 

精進とは

正しい理想に向かって

努力して歩むことで、

 

宗教的な理想はもとより、

道徳的な理想、

政治、経済の理想など、

 

自分に必要な

あらゆる理想に対して

正しい努力をすることをいいます。

 

・この正精進を四つに分けて、

わかりやすくいうと、

 

⓵ 今まで悪い習慣があったとしたら、

  その悪い習慣を直すように努力する。

 

⓶ 今後もけっして悪い習慣を

  起こさないように努力する。

 

⓷ 今まで善い習慣を持たなかったら、

  これから善い習慣を身につける努力をする。

 

⓸ すでに善い習慣を持っていたら、

  それをより一層大きくするための努力をする―――

 

正しい理想に向かって、

一歩一歩絶えず努力することが

何事をなすにも基本になるもので、

 

これは

宗教、仕事、勉学

 

すべてに通ずるものです。

 


七.   正念(しょうねん)―――

正しい意識、注意。

記憶の正しい事です。

 

というのは

記憶のことで、

 

自分の経験を

記憶にとどめることをいいます。

 

また、

その記憶を保持して忘れず、

必要に応じて

思い起こすことも含みます。

 

また、

うっかり、ぼんやりしないことが

「正念」です。

 

常日頃から

不摂生(ふせっせい)な生活をしないで、

 

いつもハッキリ、スッキリした頭で

常に正しい意識を持っていることです。

 

よく「正念場」といいますが、

 

これは大切なことを

片時も忘れず、

確りとした意識を持って、

その場に臨む

 

ということです。


八.   正定(しょうじょう)―――

正しい精神統一。

心を散乱せず

正しく坐禅する事です。

 

この正定は、

先の「正念」があることで得られます。

 

日常生活でも

精神を統一して、

心が散乱せず、

落ち着いていることが大切です。

 

仕事する時も、

あるいは本を読む時も、

自分の意見や主張を文章にしたり、

人前で発表したりする場合にも、

統一した精神や集中が必要です。

 

心が乱れていれば、

何をやるにしても

うまくいかないものです。

 

精神統一は

坐禅ばかりでなく、

 

日常、

黙思(もくし)正座をするとか、

心を落ち着かせる努力をすることで、

習慣づけていくことが

大切なのです。

 

この「正定」、

つまり禅定は、

 

正しい智慧を得るために

必要なものとされています。

 

禅定は

正しい智慧を得るための

前提条件であり、

 

自分が(そな)えている智慧を

十分に発揮し、

活用するにおいても必要です。

 

 


―――これら八つは

 

五欲煩悩、

 

即ち、

 

欲望を滅ぼすための

 

正しい道である―――

 

 

うん!

成る程、よくわかる。

 

 

ところが、

いざ日常生活の中で、

これを実践するとなると

容易なことでなく、

 

人として

この当たり前のことを

当たり前にやるということが、

 

本当に難しく

難行中の難行だと

気づかされました。

 

そこで

私はどうしたらよいかを考えた―――

 

自分が死ぬまで

毎日、毎日、

努力しなければならないと思うと、

 

面倒になり、

おろそかにもなるが、

 

今日一日の努力と思えば、

さして努力とも思わず

何とかやれるだろうと―――

 

そう思うと

気楽になり、

 

力まず、

 

気張らず

 

日常生活の中で

仏法の妙味をあじわい

楽しむ心のゆとりができてきました。

 

すると、

 

やることなすこと、

すべてが楽しい仏行となり、

 

日々、

ゆったりとした心境に

 

遊ぶ余裕がうまれてきました。

 


八正道については、

 

後日、

機会をみて

根本仏法(釈尊の人間教育学)を

述べる中で、

 

よりくわしく

八つの正しい道とは何か

をお話ししたいと思っています。

 

 

・次回、

第五話(通算No.31

『釈尊とともに歩む』は、

 

「苦行の落とし穴」についてお話します。

平成29年5月20日

 

           宗教法人 自然宗佛國寺  開山 佛國寺 黙雷



自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもとに
連載でお伝えしています