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第一話 若き釈尊の苦悩 



釈尊と共に歩む


行脚55年―――

一笠一杖の乞食こつじき雲水として全国各地を遊行し、

日本の仏教各宗派の門を叩き教えを乞うて感得したことは、

 

宗派仏教ではなく、仏法の根本である 仏祖釈尊の原点に帰り、

釈尊の原点に立って、釈尊とともに歩む」であった。


若き釈尊の苦悩 

―――人は老・病・死から逃れない――――


(えん)()(じゅ)()()(ゆい)


生きものの 噛みあう有様を見て、

少年のこころには、 

早くも人生の苦悩が刻みつけられた。


 

 

ゴータマ・シッダールタ(釈尊)は、古代インド北部のシャーキャ国(釈迦国)の太子として生まれた。

 

経典によると、シッダールタ太子は12歳の春、

父のシュッドーダナ王(浄飯王)は、例年のとおり田園に出て多くの臣と一緒にすきれの儀式を行った。

 

この農耕儀式に太子も参加して農夫の働いている姿を眺めていた。

 

 

太子は農夫たちが裸で耕作をし、牛を使いムチをあててる有様、

 

熱い太陽の光真上から照りつけ、泥と汗にまみれあえぎながら働いている人と牛を見て、

 

人間と牛の苦しむ姿が心に焼きついた。

 

 

さらに太子の心を打っのは、

鋤で掘りかえされた土の中から虫が現われ、どこからともなく小鳥が飛んで来て虫をついばんだ。

 

そして、雛にやるためであろうか、小鳥は虫をくわえたまま飛び去って行く、だが小鳥は遠くまで飛べなかった。

 

一羽の猛禽もうきんがあらわれて、小鳥を捕らえたからである。

 

 

このように、生きものどうしが互いに食べ合わなければならない自然界の弱肉強食残酷な事実を目の前に見て、

 

少年太子はいたたまらず、

 

近くの森に行き閻浮樹の木陰に坐って、静かに沈思黙想した。

 

 

 

農民の苦しい労働、

 

地中の虫の生命、

 

あわを吹きヨダレを流してムチ打たれている牛、

 

ことごとく可哀相かわいそうに思えて仕方がなかった。

 

 

そして、この事実が少年太子に強い衝撃を与え 少年太子の心に大慈悲心が芽生えた。

 

 

苦行を終えた釈尊は、

村娘スジャータ―の乳粥供養によって体力を回復させ、「悟りの座」に向かって歩み出した。

 

寄付により運営される学校の子供たちと(スジャータ―寺院)


 

 

弱肉強食の世界―――

 

私も自然のなかで庭作務、畑作務、山作務をしながら、大地に接触して働いていると、

自然界の生存競争、弱肉強食の事実をしみじみと感じます―――

 

同様に この人間社会も‐‐‐‐私は思う。

 

 

これが自然界の定めだと言ってのけるか。

 

これが生存競争だと突き放すか。

 

また、人生は共食いだとうそぶくか。

 

 

だが、それでいいのだろうか。

 

たしかに、どうしょうもない現実だけれども、

 

だからといって、可哀相にと涙を流す心があってもいいと思う。

 

 

それが人間の心ではないだろうか‐‐‐‐。

 

 

私たちは、生きている以上、殺生は避けられない。

 

また、現実の競争社会の中であらゆる苦悩を抱えて生きていかねばならない。

 

苦しいからといって逃げることはできない。

 

だからこそ「すべては苦」であるという仏法の命題は、

 

ただの理屈では無く、実際生活の直接の体験 基づいている教えだといえる―――。

 


四門出遊(しもんしゅつゆう)――生・老・病・死を思う


 

 

皆様もご存じの四門出遊」の説話を約言すると――――

 

釈尊がシッダールタ太子の時代、

宮城の東門から出遊して 老人が杖にすがってよろめくさまを見て、生あれば老いあることを悟り、

 

南門から出遊して病人に会い、生あればのあることを知り、

 

西門から出遊して一死人に会って、生あればのあるのを知り、

 

最後に北門から出遊して端然たんぜん威儀いぎ具足ぐそくした沙門(出家者)に会い、

 

その姿も心も清浄なるを見て出家得道の望みを起こしたという―――。

 

 


 

 

この「四門出遊」の仏伝は、歴史的事実の叙述じょじゅつではなく、説話です。

 

説話は常識的な、ないしは科学的な時間を超越して創作されています。

 

 

そして、これすべてを説話として読むときは始めて本当の意味がわかってきます。

 

 

この説話の場合、太子が物ごころついてから数年間に経験されたこと、感銘を受けられたことを、

 

四門出遊という劇的な場面に構成して創作されています。

 

 

また、その場面にしても、郊外の御苑に遊びに行くという楽しい娯楽と、

 

生・老・病・死人間苦悩の実態という両極端を対照させているところ

 

演出効果のたくみさが現われ、説話なればこそ表現できる臨場感が伝わってきます。

 

 


贅沢(ぜいたく)な王宮生活を捨てて


  

シッダールタ太子は生まれてまもなく母と死に分かれましたが、

 

父王と養母マハ―プラジャーパティー妃とのやさしい心づかいと、

小さいながらも富み栄えた釈迦国の資源の裏づけによって、

 

楽しくめぐまれた環境の中で少年時代をおくりながら、王の継承者としての帝王学を学びました。

 

 


  

太子17歳の時に結婚されたことは多くの仏伝に出ていますが、太子には人の妃がありました。

  

それぞれが多くの侍女とともに、それぞれの宮殿に住んでいたので、太子は三宮殿に代わる代わる休まれた。

 

時には、夏のあいだ高殿たかどのにのぼり、

 

男子をまじえず侍女たちにかしずかれ遊楽に沈溺してか月も高殿からおりなかったという。

 

 


  

王宮での遊びにあきると、30人の騎馬が前後をまもり、馬車に乗って郊外の御苑に出かけた。

 

このように、太子の青年時代は、正妃ヤショーダラーはじめ多くの侍女たちにかしずかれて

これ以上に幸福な青春時代は考えられない程であった。

 

 

たしかに王宮内の生活はこのように楽しいものであったが、

 

一歩、宮城の外に出ると、そこには生存のための厳しい現実の姿が見られた。

 

 

ことに釈迦国主として農耕によって生活を立てていたので、

 

農民の生活には苦労が多く自然を相手に激しいたたかいをしなければならなかった。

 

 

前にも述べたが、太子は王の後継者として、鍬入れ等の農耕行事に参加しなければならなかったので、

 

農民の困難な労働や、耕作に伴う自然界との激しい生存競争の事実は太子の目にはっきりと映った。

 

 

そこで、王宮内での安易な生活外界の悲惨な生活との対比が余計に強く感ぜられたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 カピラ城近く
    (ネパール側)


  

何故ならば、

私は20代から30代にかけてこのような経験があるからなのです。

3,000坪の土地に500坪の建物に住み、金にも余裕があったので、夜な夜な花街で遊楽にふけり

 

朝、目をさますと

横に眠っている芸者の顔をながめながら砂を噛むような思いをして、何かむなしくなってきました。

 

 

それなのに、馬鹿に付ける薬は無しで、

 

ウツウツとしながらも遊蕩ゆうとう生活がやめられず、肝炎で身体をこわし、身をほろぼしました。

 

 

そして、人生のどん底をのたうちまわりながら、

 

自分のもろさ、弱さ、愚かさを自覚し、

 

心底から、

 

ああ、悪かったと悔い改めると同時に、

 

自己の人間的根本改造の為、

 

一笠一杖の乞食雲水となって全国各地を 七年有半行脚しました。

 

 


  

津軽の出稼ぎ村で、村人から、

 

「農民も漁民もつかれた。なんとか生きる道を‐‐‐」

 

「安くてもいいから村に働く場が欲しい‐‐‐」

 

との声を聞いたが、私は何も答えることができなかった。

 

 

村の浄土宗湊迎寺の蓮華庵をおかりして21日間の断食行を行じたが答えが出せないので、

 

1年、年と行脚をつづけながら、考えに考えて得た答えは、

 

「人様に教えるということは出来ないが、苦悩を抱えて生きている人々と共に歩む寺を建てよう」―――と。

 

 

そして、『釈迦山佛國寺』建立を発願しました。

 

 


また行脚中、旅の疲れが重なり、

 

そこえ食うや食わずの時もあって栄養不足もあったのか病気になることもありました。

 

 

ドヤ街の安宿の床に身を臥していると

 

旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」―――で、

 

すごくさびしく、つらく、心細くなり漠然とした死の不安におそわれました。

 

 

ですから シッダールタ太子ほど深くありませんが、太子の苦悩が少しはわかります。

 

 


  

私は情欲をさげすまない。

 

私は世人がそこに結ばれているのを知っている。

 

然し世が無常なのを思って、私の心はそれを楽しまぬ。

 

老と病と死と 若しこの三つのものがないならば、

私もまた心のまま愛欲に、歓楽を見出すであろう。

 

乙女等のこの美しさが、たとえ常住であろうとも、

賢い者は、この愛欲の歓楽にふけるようなことはしなかろう。

 

 

愛欲が心に起こるときが疑いなく私達にあることを知り

 

大いなる恐懼あるとも、自ら持するなば、その人の心は、鉄石で作られていると思う。

 

       (釈 尊)

 

 

 


苦行では悟れないと知る


求道の旅に出る―――


 

29歳でカピラ城を出て出家した太子は、手にはつを携えて、托鉢をなしつつ求道の旅をつづけた。

 

今まで贅沢な生活をしていた太子には、

もらいあつめたまずい食事は、はじめのうちのどを通らないこともあったと思うが、 

やがてそれは問題にならなくなったであろう。


苦行林に入る―――


苦行林

 

釈尊が悟りを開かれた、ブッダガヤ付近を流れているネーランジャラー(尼蓮禅河)という、

ガンジス河の支流に添ったセーナ村の近くにあったといわれている。

 

かって、私と妙円は当時の苦行林が何処で、釈尊が苦行した場所がどこであったかと、

 

尼蓮禅河の畔のウルブェーラー村、ムチャリン村、そして対岸のバカロル村を訪ねたが、

 

苦行林の場所がどこであったかを 特定することはできませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

苦行林」はどこに?


 

釈尊は、苦行林6年間、人間が耐えられるいかなる苦行をも試みたといわれているが、

 

後年、釈尊は当時を追懐ついかいして、

 

 

「昔のいかなる沙門、バラモンが、どんな激しい苦痛を受けた者があったとしても、

 

 自分ほどに徹底した最極の苦行を試みた者はなかったのであり、

 

 未来のいかなる沙門、バラモンでも自分が行ったほどの苦行をなす者はないであろうし、

 

 また現在のいかなる沙門、バラモンでも、自分が試みたような激しい苦行をしている者はないのでる。

 

 このような激しい苦行を続けてみても、

 

 自分は最高の悟り到達することができなかった

 

―――と、 述べられています。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「釈尊苦行像」
パキスタン・ガンダーラ出土

(ラホール博物館蔵)

 

 

私は、苦行林があったといわれる尼蓮禅河の近くの村々を歩き

 

今も大木が鬱蒼うっそう繁茂はんもしている森の中で、苦行する釈尊像の写真を手にしながら釈尊の姿を想像しました―――

 

身体はせ衰え全身の筋肉や皮膚にシワがより、肋骨が露出し大動脈は今も躍動しているかの如く、

 

また眼や腹部はすっかりくぼんで癒着し

 

まさしく生と死の極限に立つ釈尊の厳粛なる真理追究の姿を思い描き、

 

本当に死を賭した命がけの苦行であったと感得することができました。

 

 


苦行の放棄


 

 

―――釈尊は、太子時代、春は野辺の花、夏は水辺の木陰と歓楽の限りを尽くした。

 

それを何故、骨と皮だけになるまで苦行をしなければならなかったのか。

 

 

それは流転の海(迷いの世界)から彼岸(悟りの世界)に達しようという強い思いがあったからだ。

 

 

だが釈尊は、苦行によって悟り(迷いを去って永遠不変の真理を証得する)の境地に到達できないことを知り、

 

悟りに至るべき方法は、おそらく別にあろうと考え意を決して、苦行を放棄された。

 


 

 

私の断食行、下座行(路上坐禅)なぞは、釈尊の6年の苦行の足下にもおよびませんが、

 

自分の経験からいえることは、断食行には死の危険が伴ない、

 

 

下座行には路上に数時間、小便を我慢して坐り、そこえ地面の冷えがかさなって膀胱に痛みを感じます。

 

 

60歳過ぎた頃から、下座行後、数週間小便をしたあと残尿感がありましたが、

 

73歳、東京・池袋駅前の路上に21日間坐った後、膀胱に激痛がはしるようになり、

 

また、

小便をしようと思ってもチョボチョボとしか出ず、いつも下腹部に鈍痛を感じ気分がすっきりしなくなりました。

 

 

医者に行けば、前立腺肥大症ということで、即、手術ということですが、

 

今ひとつ不安がありましたので、手術をした老人何人かにきくと、あまり調子はよくないということでした。

 

そこで、

食事療法(いのち薬・養生食)と温熱療法で2年間程治療したところお蔭様で、小便は正常な状態にもどりました。 


 

私は数十年間、難行苦行が仏道修行だと思い込み、

 

それに囚われて身体を痛めに痛めその結果、健康を害しました。

 

そして、難行苦行では悟れないことが分かりました。

 

 

ですから、釈尊が苦行を放棄された意味が 自分なりに理解することができます。

 

 


村娘・スジャータ―の供養


 

 

―――仏伝によれば、

 

寒気苦熱とたたかい、

 

飢餓とたたかい、

 

あらゆる苦行を耐え忍んだ6年の月日で、

 

身体は痩せ細って枯木のようになり、顔は骸骨のようになっていた釈尊は、

 

 

尼蓮禅河で垢づいた身を洗い清めたが、

 

あまりにも衰弱していたので、

 

川から岸に上ろうとしても、その力がなく、木の枝につかまって、やっと川を出ることができた。

 

 

その時、河畔からほど遠からぬ森の中に、スジャータ―という娘がいた。

 

彼女は釈尊が岸から上がって休んでいる様子をみて、乳粥を携えてそのそばに走り寄った。

 

 

彼女の捧げた滋養に富んだ乳粥を食した釈尊はしだいに体力を回復した―――とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 釈尊に

村娘スジャータ―が

乳粥を供養している様子。

(スジャータ―寺院)


 

 

釈尊は、これまでに二つの両極端な経験をした。

 

一つは出家の動機となったカピラ城での欲望のおもむくまま快楽を貪る世俗の生活

 

もう一つは、苦行林での死の淵にいたる厳しい苦行の実践である。

 

 

物質への執着と官能への欲望が渦巻く王宮での生活ではむなしさがつのり、自己嫌悪におちいっただろう。

 

 

また、極端な苦行は苦痛がともない、

 

身体は衰弱し、正常な精神感覚を失い、究極の真理を追究する道ではないことを知った。

 

 


快楽生活

 

苦行生活という二つの両極端な生活を

 

捨て去った釈尊は、

 

スジャータ―の乳粥の供養を受けて体力を回復させ、

 

悟りの座へ向かって踏み出した――――

 

 

第二話につづく

 

 

平成29年3月25日

           宗教法人 自然宗佛國寺    開山  愚谷軒 黙雷



自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもと

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