1)心とは 何か?


1)心とは 何か?


仏法は 

 

「心の教え」であります。 

 

 

 

では

 

「心とは 何か?」――

 

 

およそ世の中で 

 

何がわからぬか 

 

といえば、

  

人間の心ほど 

 

わからぬものはない と思う。 

 

 

というのは、

 

心は 

 

有るとか 

 

無いとか、 

 

ハッキリ言う事の出来ないものだからです。

 

いのちの森勧進7ヶ日間下座行
(平成19年12月10日~伊勢神宮門前)


世の中で 

 

有る

 

と言えるものは、

 

眼に見えることができるか、 

 

手に触れることが出来るか、 

 

 

あるいは

 

においをぐことが出来るか、 

 

耳で聞くことが出来るか、 

 

そういう物であれば 

 

有るといえます。 

 

 

ところが、 

 

心は有るか、

 

有るというのなら

 

見せてみろ

 

といわれても、 

 

客観的に心というものは 

 

見せることができない。

 

  

まるいとも 

 

四角いとも、

 

黒いとも 

 

赤いとも

 

見ることが出来ないものである。

 

 


それならば、 

 

心は無いか 

 

問われて

 

心が無いと言えば、 

 

その無いというのは 

 

誰かというと、

 

自分の心 

 

だということになる。 

 

 

有るのかといって 

 

有りと眼で見ることは 出来ない。 

 

無いかというと、

 

その無いというのは 

 

自分の心 

 

だということになって、 

 

有るとも 

 

無いとも言えない―――。

 

 


ですから、 

 

心というものは

 

有るか無いか 

 

ハッキリ言うことは出来ないが、 

 

「心の働き」 

 

というものは 

 

私たちにも考えることができる。

 


心 の はたらき


例えば、

 

この山に登ろうとし、

 

 

もしくは 

 

山を降りようと思い、 

 

 

あるいは、

 

右にしようとし

 

左にしようとするのは 

 

 

心の働きであります。 

 

 

 

それなら、 

 

その心の働きは 

 

どうして起こるかというと、 

 

それには 

 

外から入る 

 

心の働きと、 

 

 

 

内から起こる 

 

心の働きがあります。

 

 


外から入る心の働き

 

というのは、 

 

眼で見る、

 

耳で聞く、 

 

鼻で嗅ぐ、 

 

口で味わう、 

 

 

あるいは 

 

身体手足の触れるという、 

 

 

眼・耳・鼻・舌・身

 

の五官の働きで、

 

何を見た、 

 

何を聞いた、 

 

何を嗅いだ、 

 

何を食べた

 

ということが 

 

心の中に入って、 

 

初めて 

 

心の働き 

 

出来るのであります。

 

 


今、言うたのは 

 

外から入って行く 

 

心の働きですが、 

 

 

今度は 

 

内から外に出る 

 

心の働きで、 

 

 

これは

 

人間の経験、

 

 

あるいは

 

教育によって、 

 

皆違いますが、 

 

 

 

人間として 

 

すべての人が性来もっているところの 

 

内から外に出る 

 

本能というものがある。 

 

 


 

断食と断食行のちがい(21日間断食行 その1)

 

の中で述べた 

 

 

「根本欲」という 

 

 

原始的、本能的欲望のうちで、 

 

 

生命をつなげる食欲は、

 

誰もが教えなくても 

 

飢えれば物を食いたい。 

 

 

渇すれば水を飲みたい 

 

という 

 

心が自然に働く 

 

 

その食いたい飲みたいという考えは 

 

内から外に出る働きです。

 

 

 

そして、

 

すこし複雑になると、 

 

 

人間が性来もっている 

 

所有本能

 

 

即ち、

 

何でも自分のものにしたい 

 

という欲望です。

 

 


このように 

 

外から内に入るものと、 

 

内から外に出るものとが、

 

 

心中で相争うて

 

 

人間の心が成立なりたっています。

 

 

 

そして、

 

この二つが

 

心の中で 

 

互いに争い、

 

 

人の心は 

 

何時も波が立って、 

 

 

朝から晩まで、 

 

ああしょうか、

 

こうしょうかと 

 

 

思い通しに思って 

 

絶え間が無い。 

 

 

 

これでは 

 

心の落ち着く暇もない。

 

 

 

仏法は、

 

 

その波立っている

 

 

ひとつにまとめて

 

 

心の落ち着きを極める 

 

 

「心の教え」 

 

 

であります。

 

 

 


心 の 置き所


白露しらつゆの おのが心を そのままに

 

かえでにおけば くれないの玉 

 

 

この古歌は、

 

心の置き所 

 

選ぶことの 

 

大切さ 

 

示された教訓であります。

 


中国の古典に 

 

に近づけば 必ず黒く 

 

に近づけば 必ず赤し

 

とあり、

 

 

 

俗に

 

に交われば 赤くなる」

 

といいます。 

 

 

これは、 

 

人は交わる友、 

 

環境によって、 

 

良くも悪くなる。 

 

 

 

つまり、

 

善人と交われば 

 

善に化し、

 

 

悪人と交われば

 

悪に化す―――とう意味ですが、 

 

 

 

人間の天性というものは、 

 

各々そんなに違ったものではない。 

 

 

 

しかし、

 

その人の習慣によって、

 

大変ちがったものになります。

 

 


習慣 

 

第二の天性と申しますが、 

 

 

心に善を置けば 

 

善となり、 

 

 

悪に置けば 

 

悪となる。 

 

 

 

心の置き所

 

大切であります。

  


 

仏典に

 

 

の心に慈悲の徳ある、

 

これを名付けて観音という。 

 

 

斯の心に勇猛の徳ある、 

 

これを名付けて勢至せいしという。 

 

 

斯の心に智慧の徳ある、 

 

これを名付けて文殊もんじゅという。 

 

 

斯の心に万行の徳ある、

 

これを名付けて地蔵という。 

 

 

斯の心に障碍しょうげ(障害)なし、 

 

この徳を名付けて虚空蔵こくうぞうという。 

 

 

斯の心一切の境界を照らす、 

 

この徳を名付けて大日如来という。

 

 

斯の心は不生不滅なり 

 

この徳を名付けて阿弥陀佛という。 

 

 

斯の心に常楽あり、

 

この処を天道という。

 

 

斯の心に苦楽あり 

 

この処を人間という。

 

 

 

この心に瞋恚しんに(怒り)あり、 

 

この処を修羅(嫉妬・猜疑さいぎという。

 

 

斯の心に貪欲どんよくあり、 

 

この処を餓鬼がきという。

 

 

斯の心に愚痴(真理に対する無知。迷妄)あり、 

 

この処を畜生という。 

 

 

斯の心に常苦あり、 

 

この処を地獄という――― 

 

 

とある。

 

 


 かくの如く、

 

斯の心

 

種々無量の変化はあるが、

 

 

 

みな 

 

自分の心

 

そのものに外ならぬ。 

 

 

つまり、 

 

その人の 

 

心の置き所一つで、 

 

観音菩薩ともなり、

 

阿弥陀佛ともなります。 

 

 

 

また、

 

修羅ともなり、 

 

餓鬼ともなり、 

 

地獄ともなります。 

 

 


仏様は 心中に あり


これは、 

 

四国霊場八十八ヶ所、

 

西国観音霊場三十三ヶ所の

 

各札所で出会った

 

巡礼者の方々が 

 

 

「観音様や不動明王などの仏様が、

 

  目の前に現れた-‐‐‐‐」

 

 

 という話しをされました。

 

 

 

しかし、 

 

それは幻覚であり 

 

妄想であります。

 

 

 

観音様や 

 

不動明王は、

 

心の外におられるのではなく、

 

 

自己の心中の仏殿 

 

 

ドンと坐っておられるのです。 

 

 

 

私の場合、

 

仏様(仏像)は、

 

 

自分が斯くありたいと願う

 

理想の人間像 

 

として捉えています。

 

 

 

そして、 

 

自分の理想の人間像 

 

「釈迦牟尼佛」です。

 

全国行脚7年半、背負い籠に入れ、同行した「不動明王像」


また、 

 

諸仏の「はたらき」を、

 

その時 

 

その場に

 

置かれた環境 

 

に応じて活用しています。 

 

 

 

例えば、 

 

全国行脚七年有半

 

第三話第四話「行雲流水」参照) 

 

行脚中、 

 

 

四貫目という大きな背負しょいかご 

 

不動明王像

(上の写真・高さ35㎝)を 

 

入れて持ち歩き、 

 

 

寝る前に 

 

不動尊と対坐して 

 

自問自答し、

 

 

自己の心中に 

 

不動尊の仏殿 

 

を建立しました。 

 

 

 

そして、 

 

煩悩・妄想を焼き払いながら、 

 

「不動心」 

 

涵養に努めました。 

 

 


これは二宮尊徳翁の話しですが、 

 

 

 

床のかたわら

 

不動尊の像をかけていた。 

 

 

ある時、

 

山内ただまさという人が 

 

尊徳翁を訪れた折に、

 

 

「貴殿は不動尊をお信じになられますか」 

 

 

ときいた。 

 

 

 

翁は、 

その問に答えていわく。 

 

 

「わたくしは壮年の頃、 

 

 小田原候(大久保ただざね)の命を受けて、

 

 下野しもづけもの村に行ったことがある。 

 

 それはひどいところだった。 

 

 民百姓は離散し 

 

 土地は荒廃し、 

 

 手のつけようがないほどであった。 

 

 

 

 そんな荒れ果てた村を見て、

 

 私は 

 この復興の成否にかかわらず、

 

 生涯 

 ここを動くまいと決心した。

 

  (東海道行脚「洗心自新録」参照) 

 

 

 たとえ 

 

 何らかの事故がおきて、 

 

 背に火が燃えつくような 

 

 事態にいたったとしても、

 

 

 決して動くまい

 

 

 と死をもって誓った。

 

 

 

 不動尊とは 

 

 動かざれば尊しと訓ずる 

 

 ではないか。 

 

 

 

 私は 

 その名義と 

 

 猛火背を焚くといえども動かざる 

 

 像形を信じ、 

 

 この像をかけて 

 

 その妻子に教えているのだ。

 

 

 

 不動尊に 

 

 どんな功徳があるのか 

 

 知らないが、 

 

 私が今日に至っているのは 

 

 不動心の堅固ひとつにある。

 

 

 

 そこで 

 

 今日もなお

 

 この像をかけて妻子に 

 

 その意を示しているのだ」――― 

 

 

 

心の置き所 

 

の一例であります。 

 


行為によって、

 

仏陀となり、

 

 

  行為によって、

 

凡夫となる。

 

 

その人の心の置き所一つで 

 

仏陀(真理に目覚めた人)ともなり、 

 

凡夫(迷いの境界にある人)となる。


古人は 

 

「仏陀は 

 

 凡夫の悟りし人、 

 

 

 凡夫は 

 

 仏陀の迷いし人」 

 

 

といっているが、 

 

 

畢竟ひっきょう

 

仏陀というも 

 

凡夫というも、 

 

心の外にはない。

 

 

 

要するに、 

 

自分が 

 

「心のぬしとなって、 

 

 

 

心そのものを、 

 

心のままに 

 

自由自在に使いこなせるか、 

 

 

どうかによって、 

 

仏陀凡夫とに 

 

分かれるのであります。

 

 


古歌に

 

よきにによ あしきににるな 鍋で世は

 

人の心は 自在じざいかぎなり 

 

と。 

 

自在鉤

(炉・かまどの上に、上からつるし、

  鉄びん・鍋・釜などを自在に上下させる装置の鉤) 

 

に鍋をかけ、 

物を煮ることに

 

心をたとえて 

読んだものであります。 

 

 

 

よきにによ、 

ということは

 

善き方に似なされ


(食物ならうまく煮なされ)、

 

 

あしきににるな 

ということは 

 

 

あしき方に似なさるな


(食物ならまずく煮なさるな)、
 

 

 

鍋でこの世を

 

とは 

 

おしなべてこの世間というものは 

 

一箇の鍋のごとく、 

 

 

心の自在鉤で、

 

 

上げたり 

 

下げたりすることが 

 

出来るという意味です。

 


まさに 

 

人間の万事は、 

 

 

心の置き所一つ 

 

 

善にも悪にも、 

 

 

 

身を立つるも

 

身を亡すも、 

 

自由自在だと――― 

 

 

行脚、下座行を 

 

黙々と行ずるなかで 

 

定得しました。 

 

引かれなば 悪しき道にも 入るぬべし

 

 心の駒に 手綱ゆるすな



次号「自己の主人公」につづく


平成28年12月17日

 

                 自然宗佛國寺 開山          愚谷軒 黙雷(もくらい) 


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年から長期連載でお伝えいたします。


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