第六話(下)正しい坐禅の仕方

禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 瞑想ではない。 坐禅は、 けっして 難行苦行ではない。 特別な人々だけのものでもない。 第六話 坐禅は瞑想ではない(上)より

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第六話(上)坐禅は瞑想ではないNo32.

眼を張らず、細めず通常に開いて 前方三尺の処に自然に落とす。 坐禅は瞑想ではない。 (曹洞禅の大徳・沢木興道老師) 禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 瞑想ではない。 釈尊、 成道(さとりの完成)の 正因(直接の原因)は 坐禅に在り、 正覚(正しいさとり)は、 仏性を直観せしに在り――― ・このところ、佛國寺によく、 ヨーガの教師や体験者が、 また、スリーランカの仏教僧・アルボムッレ・スマナサーラ師やマインドフルネスの提唱者ティク・ナット・ハン師に傾倒される方々が来山され、 佛國寺の「いのちの森」で瞑想させてほしいといわれる。 この方々のお話をお聞きしていると、 坐禅と瞑想を混同されているので、 「瞑想」(冥想)とは何かを改めて字引を引くと、 「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと」―――とある。

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第五話 苦行の落とし穴(通算No.31)

苦行は、 ひとつまちがえると 死ぬこともある。 だが、 死んでしまっては、 もうどんなにしても 幸福にあえないから、 命を捨てるような苦行は 愚かなことだと知る。 それでなくとも、 身体を壊して 日常生活のはたらきに支障をきたし、 何んの益もないこと がわかったので、 私は 下座行や断食行、滝行に 見切りをつけ 苦行を捨てました。 いまひとつ苦行には、 正常な社会生活に害となる 危険性をはらんでいます。 ========== 生まれによりて 聖者となるのではない 生まれによりて 非聖者となるのではない 人はその行為によりて 聖者となるのであり、 その行為によりて 非聖者となるのである。 (釈 尊)

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第四話 四苦八苦は苦行で解決できないと知る

釈尊は後年、 「いかなるものでも  自分が行じたような  苦行をするものはない」 といっておられるが――― 苦行の結果、 釈尊は文字通り 骨と皮だけになり、 眼はくぼみ、 皮膚は黒くひからび、 がい骨のようになったという。 そして、 釈尊は苦行の空むなしさを知って 苦行を捨てた後、 菩提樹下で 「さとり*」を開かれ、 (さとり*=迷いを去って永遠普遍の真理に目覚めること) 私たち凡夫に 五欲煩悩、 即ち、 欲望を 解決する方法を 開示されました。

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第三話 釈尊とともに歩む(通算No.29)

<禅定で人生の苦が解消できるか> 私は 21日間断食行 (「森の和尚からの手紙」第五話・第六話 大死大活) を行じたが、 断食行や禅定では 人生の苦の問題を解決することは できないと知った。 行としての21日間断食行で、 何を体験し、 何を摑むかは、 人、様々だと思います。

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第二話 菩提樹下のさとり(通算No.28)

インドでは、 今日でもなお 絶対の安心を得るためには、 肉体の死後でなければならない とする考え方があり、 いろいろな苦行が続けられています。 釈尊と同時代の紀元前5~6世紀頃、 インドの地で生まれたジャイナ教は、 苦行を最高の理想とし、 その教祖・マハーヴィーラの、 すぐれた弟子11人中の9人までが、 断食によって生命を絶ち、 それによって、 最高の解脱(この世のすべての煩悩から解放された、 迷いから抜け出て、真の自由の境地に達すること) を得たとされている―――が、 それでは、 いったい何のための苦行であるか、 わからないことになる。 私たちは、 肉体と精神をそなえているこの身体で、しかも、 現世において 苦しみ悩みのない生活が 得られなければ意味がない。 肉体の無い 精神だけの生活とか、 肉体の死後の生活とかいうものが、 実際あるかどうか、 それはわからないし、 たとえあったとしても、 それは、 現世の私たちの不安や苦悩の 解決には役だたない―――。 「第一話」からのつづき

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第一話 若き釈尊の苦悩 (通算No.27)

行脚55年――― 一笠一杖の乞食こつじき雲水として 全国各地を遊行し、 日本の仏教各宗派の門を叩き教えを 乞うて感得したことは、 「仏法の根本である 仏祖釈尊の原点に帰り、釈尊の原点に立って、 釈尊とともに歩む」であった。 ーーーーーーーーーーーーーー 生きものの 噛みあう有様を見て、 少年のこころには、 早くも人生の苦悩が刻みつけられた。

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