『菜根譚』の79条に、 耳目見聞は外賊がいぞくたり、 情欲意識は内賊たり、 只是主人翁、 惺々不昧にして、 中堂に独坐せば、 賊便家人とならん。 ーーーーーーーーーーーーーーーー ・耳目見聞―――耳で聞き目で見る。これは耳目の欲。 ・情欲――― 情愛の欲をいう。または種々の欲望。 ・意識―――我意。私欲。 ・主人翁―――主人公。 ・惺々不昧―――精神がはっきりしていて、邪悪・邪心にくらまされないこと。 ・家人―――使用人。 ―――とありますが、これは2)自己の主人公 の「瑞厳主人公」と 同義であります。 私たちの心を乱す賊は 内と外にいます。 耳で聞き、目で見て、これが欲しい と思う欲望があります。 そういう欲望は 目や耳を通じて 外部より入ってくる賊です。 これを「外賊」といい、仏法では「外魔」という。ところが、 人間の情欲、欲望、あるいは 意識作用、精神作用のようなものは、 心の中におる賊です。 これを「内賊」といい、仏法では「内魔」という。 つまり、外界の刺激で生ずる欲望は 「外賊」(外魔)、 自分自身の中から生まれてくる欲望は 「内賊」であります。

自己反省の方法は 人それぞれだと思いますが、 私の場合は、 坐禅―――正身端坐―― まず姿勢を調えて、 まっ直ぐに腰を据えて 端正に坐る。 そして、 自己の心の内に向かって 静かに考え、 心を整理する。 さらに自問自答して 自分で自分の行動を 批判して見ることにしています。 心を整え 内に向かって 真実の自己を 見詰めると、 心の奥底に潜ひそめる 「仏性の光」が 見えてきて、 だんだん 自分の過失が 見出されてきます。 そして「ああ悪かった」と 気が付きます。 この気付くということは、 天地万物と 自己とが 一貫する 神泉のほとばしりで、 これによって 罪業を 洗い浄めると、 明々皓々(めいめいこうこう)たる 本もとの光が現れてきます。

仏法は 「心の教え」であります。 では 「心とは何か?」―― およそ世の中で 何がわからぬか といえば、 人間の心ほど わからぬものはない と思う。 というのは、 心は 有るとか 無いとか、 ハッキリ言う事の出来ないものだからです。

ご挨拶 · 01日 1月 2018
松や柏樹は千年の緑を保つことから、 永遠の繁栄を願う、 おめでたい句とされていますが、 そこに、松柏不断の真説法が聞けたならば、 いっそうめでたさも増すことと思います。

瞑想は禅ではない · 02日 9月 2017
つづいて、 「マインドフルネスは禅に似て禅に非ず」(下)に に入りますが、 何故、 上中下の3回に渡って 書くことになったかと申しますと、 この後の 「2.大地に触れる瞑想」で お話しする、 ティク・ナット・ハン師に傾倒する 女性たちとの出会いが 動機となっています。 ・マインドフルネスは 禅を標榜ひょうぼうしていますが、 仏祖正伝の禅仏法とは 全く異質のもので 禅ではありません。 ここが 肝心要なところなので 繰り返し申し上げます。

瞑想は禅ではない · 19日 8月 2017
マインドフルネスの提唱者、 ティク・ナット・ハン師の 経歴をみると、 ベトナム・フエ出身で、 臨済宗の法灯を継承した禅僧 (詩人、学者、平和運動家)とある。 彼はベトナム独立戦争の時、 ベトナム共和国(南ベトナム)と、 ベトナム民主共和国(北ベトナム)の 和解に尽力。 渡米して 和平提案の スピーチを行ったことから、 南北ベトナム政権双方から 追放処分され、 かつての宗主国(植民地支配者)である フランスに亡命したという――― ここで、 私の頭の中にうかんだのは、 民族の自由独立 のために戦った ホー・チ・ミン と ガンディーの 「人間としての価値ある生き方」 であった。

瞑想は禅ではない · 05日 8月 2017
マインドフルネスは 禅に似て 禅に非あらず(上) <マインドフルネスは禅ではない> ベトナム出身の禅僧で、 マインドフルネスの提唱者、 ティク・ナット・ハン師が、 禅(Zen)を Meditation(瞑想)、 坐禅(Zazen)を Sitting Meditation (坐ってする瞑想) といわれています―――が 瞑想は禅ではありません。 禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 この「禅とは何か」の 根本を誤り、 坐禅修行の出発点を間違えると、 ボタンの掛け違いになります。 そして、 ボタンをはじめから 掛け直さなければならなくなります。 マインドフルネス提唱者の ティク・ナット・ハン師は、 ベトナム・フエの慈孝寺で 臨済宗りんざいしゅう42代の法灯を継承されたとのことであるが、 その、 臨済宗の祖・臨済義玄禅師は、 「黒山の鬼窟、誠に怖畏ふいすべし」 と注意されています。

瞑想は禅ではない · 08日 7月 2017
禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 瞑想ではない。 坐禅は、 けっして 難行苦行ではない。 特別な人々だけのものでもない。 第六話 坐禅は瞑想ではない(上)より

瞑想は禅ではない · 01日 7月 2017
眼を張らず、細めず通常に開いて 前方三尺の処に自然に落とす。 坐禅は瞑想ではない。 (曹洞禅の大徳・沢木興道老師) 禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 瞑想ではない。 釈尊、 成道(さとりの完成)の 正因(直接の原因)は 坐禅に在り、 正覚(正しいさとり)は、 仏性を直観せしに在り――― ・このところ、佛國寺によく、 ヨーガの教師や体験者が、 また、スリーランカの仏教僧・アルボムッレ・スマナサーラ師やマインドフルネスの提唱者ティク・ナット・ハン師に傾倒される方々が来山され、 佛國寺の「いのちの森」で瞑想させてほしいといわれる。 この方々のお話をお聞きしていると、 坐禅と瞑想を混同されているので、 「瞑想」(冥想)とは何かを改めて字引を引くと、 「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと」―――とある。

釈尊と共にあゆむ · 03日 6月 2017
苦行は、 ひとつまちがえると 死ぬこともある。 だが、 死んでしまっては、 もうどんなにしても 幸福にあえないから、 命を捨てるような苦行は 愚かなことだと知る。 それでなくとも、 身体を壊して 日常生活のはたらきに支障をきたし、 何んの益もないこと がわかったので、 私は 下座行や断食行、滝行に 見切りをつけ 苦行を捨てました。 いまひとつ苦行には、 正常な社会生活に害となる 危険性をはらんでいます。 ========== 生まれによりて 聖者となるのではない 生まれによりて 非聖者となるのではない 人はその行為によりて 聖者となるのであり、 その行為によりて 非聖者となるのである。 (釈 尊)

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