02日 9月 2017
つづいて、 「マインドフルネスは禅に似て禅に非ず」(下)に に入りますが、 何故、 上中下の3回に渡って 書くことになったかと申しますと、 この後の 「2.大地に触れる瞑想」で お話しする、 ティク・ナット・ハン師に傾倒する 女性たちとの出会いが 動機となっています。 ・マインドフルネスは 禅を標榜ひょうぼうしていますが、 仏祖正伝の禅仏法とは 全く異質のもので 禅ではありません。 ここが 肝心要なところなので 繰り返し申し上げます。
19日 8月 2017
マインドフルネスの提唱者、 ティク・ナット・ハン師の 経歴をみると、 ベトナム・フエ出身で、 臨済宗の法灯を継承した禅僧 (詩人、学者、平和運動家)とある。 彼はベトナム独立戦争の時、 ベトナム共和国(南ベトナム)と、 ベトナム民主共和国(北ベトナム)の 和解に尽力。 渡米して 和平提案の スピーチを行ったことから、 南北ベトナム政権双方から 追放処分され、 かつての宗主国(植民地支配者)である フランスに亡命したという――― ここで、 私の頭の中にうかんだのは、 民族の自由独立 のために戦った ホー・チ・ミン と ガンディーの 「人間としての価値ある生き方」 であった。
05日 8月 2017
マインドフルネスは 禅に似て 禅に非あらず(上) <マインドフルネスは禅ではない> ベトナム出身の禅僧で、 マインドフルネスの提唱者、 ティク・ナット・ハン師が、 禅(Zen)を Meditation(瞑想)、 坐禅(Zazen)を Sitting Meditation (坐ってする瞑想) といわれています―――が 瞑想は禅ではありません。 禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 この「禅とは何か」の 根本を誤り、 坐禅修行の出発点を間違えると、 ボタンの掛け違いになります。 そして、 ボタンをはじめから 掛け直さなければならなくなります。 マインドフルネス提唱者の ティク・ナット・ハン師は、 ベトナム・フエの慈孝寺で 臨済宗りんざいしゅう42代の法灯を継承されたとのことであるが、 その、 臨済宗の祖・臨済義玄禅師は、 「黒山の鬼窟、誠に怖畏ふいすべし」 と注意されています。
08日 7月 2017
禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 瞑想ではない。 坐禅は、 けっして 難行苦行ではない。 特別な人々だけのものでもない。 第六話 坐禅は瞑想ではない(上)より
01日 7月 2017
眼を張らず、細めず通常に開いて 前方三尺の処に自然に落とす。 坐禅は瞑想ではない。 (曹洞禅の大徳・沢木興道老師) 禅は禅であり、 坐禅は坐禅である。 瞑想ではない。 釈尊、 成道(さとりの完成)の 正因(直接の原因)は 坐禅に在り、 正覚(正しいさとり)は、 仏性を直観せしに在り――― ・このところ、佛國寺によく、 ヨーガの教師や体験者が、 また、スリーランカの仏教僧・アルボムッレ・スマナサーラ師やマインドフルネスの提唱者ティク・ナット・ハン師に傾倒される方々が来山され、 佛國寺の「いのちの森」で瞑想させてほしいといわれる。 この方々のお話をお聞きしていると、 坐禅と瞑想を混同されているので、 「瞑想」(冥想)とは何かを改めて字引を引くと、 「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと」―――とある。
03日 6月 2017
苦行は、 ひとつまちがえると 死ぬこともある。 だが、 死んでしまっては、 もうどんなにしても 幸福にあえないから、 命を捨てるような苦行は 愚かなことだと知る。 それでなくとも、 身体を壊して 日常生活のはたらきに支障をきたし、 何んの益もないこと がわかったので、 私は 下座行や断食行、滝行に 見切りをつけ 苦行を捨てました。 いまひとつ苦行には、 正常な社会生活に害となる 危険性をはらんでいます。 ========== 生まれによりて 聖者となるのではない 生まれによりて 非聖者となるのではない 人はその行為によりて 聖者となるのであり、 その行為によりて 非聖者となるのである。 (釈 尊)
20日 5月 2017
釈尊は後年、 「いかなるものでも  自分が行じたような  苦行をするものはない」 といっておられるが――― 苦行の結果、 釈尊は文字通り 骨と皮だけになり、 眼はくぼみ、 皮膚は黒くひからび、 がい骨のようになったという。 そして、 釈尊は苦行の空むなしさを知って 苦行を捨てた後、 菩提樹下で 「さとり*」を開かれ、 (さとり*=迷いを去って永遠普遍の真理に目覚めること) 私たち凡夫に 五欲煩悩、 即ち、 欲望を 解決する方法を 開示されました。
15日 4月 2017
<禅定で人生の苦が解消できるか> 私は 21日間断食行 (「森の和尚からの手紙」第五話・第六話 大死大活) を行じたが、 断食行や禅定では 人生の苦の問題を解決することは できないと知った。 行としての21日間断食行で、 何を体験し、 何を摑むかは、 人、様々だと思います。
01日 4月 2017
インドでは、 今日でもなお 絶対の安心を得るためには、 肉体の死後でなければならない とする考え方があり、 いろいろな苦行が続けられています。 釈尊と同時代の紀元前5~6世紀頃、 インドの地で生まれたジャイナ教は、 苦行を最高の理想とし、 その教祖・マハーヴィーラの、 すぐれた弟子11人中の9人までが、 断食によって生命を絶ち、 それによって、 最高の解脱(この世のすべての煩悩から解放された、 迷いから抜け出て、真の自由の境地に達すること) を得たとされている―――が、 それでは、 いったい何のための苦行であるか、 わからないことになる。 私たちは、 肉体と精神をそなえているこの身体で、しかも、 現世において 苦しみ悩みのない生活が 得られなければ意味がない。 肉体の無い 精神だけの生活とか、 肉体の死後の生活とかいうものが、 実際あるかどうか、 それはわからないし、 たとえあったとしても、 それは、 現世の私たちの不安や苦悩の 解決には役だたない―――。 「第一話」からのつづき
25日 3月 2017
行脚55年――― 一笠一杖の乞食こつじき雲水として 全国各地を遊行し、 日本の仏教各宗派の門を叩き教えを 乞うて感得したことは、 「仏法の根本である 仏祖釈尊の原点に帰り、釈尊の原点に立って、 釈尊とともに歩む」であった。 ーーーーーーーーーーーーーー 生きものの 噛みあう有様を見て、 少年のこころには、 早くも人生の苦悩が刻みつけられた。