すべてのものは心によって作られる

世俗的な人間の 欲望を活かして 善用する――― では、 どうしたら 苦悩の種となる 欲望を活かして 善用することが出来るか。 (第二十話からのつづき) 何か よい妙薬はあるのか? あります―――。 そこで、 これから申し述べることは、 行脚55年、下座行(路上坐禅)50年の体験から 身体で摑んだもので、 理論理屈の世界ではありません。 これは、 紅塵万丈・利害得失の渦巻く 娑婆世界で 何とか まともに生きたいと願望し、 俗世間にまみれた 煩悩深き凡僧が、 あちらに頭をぶつけ、 こちらに頭をぶつけながら 体得した、 踏まれても 踏まれても 立ち上がってくる 雑草禅ですから、 頭ではなく、 身体で 読んでいただければ 有り難く思います。

娑婆世界(忍土)縁あって、 人間と生まれた以上、 仏法では、 この紅塵万丈・利害得失の渦巻く 人間世界を 娑婆世界といいます。 娑婆(しゃば)とは、 訳して 忍土・堪忍土・忍界 即ち、 さまざまの煩悩から 離脱できない衆生が、 苦しみを耐え忍びながら生きる所 という意味です。 つまり、 人生は 本来において 苦しい所であり、 苦しい所だから 忍受にんじゅしなくてはならぬと、 苦悩を 人間の必然的運命と見ています。 私たちは当然 他の動物よりも 多く苦しまねばならぬ 運命を有しています。 ですから、 今さら とやかく愚痴をいってみた所で どうしょうも無いことであります。

下座行(路上坐禅)50年を行じて 身体で悟ったことは、「自分を引っ括めて、すべての人々が 苦悩を抱えながら生きている」という、 ごく当たり前のことでした。 そして同時に、 人々の苦悩を 我が事として 捉えることが、 やっとできるようになりました。 ・道端に 黙然大坐しながら、 巷ちまたの声をきき、 思ったことは、 人々の苦悩の種は 至極複雑で、ここにこれを 一々あげることはできませんが、心の置き所ひとつで、 苦悩は 自分を磨き上げる 尊い試練になる ということでした。 だが、かって自分が 人生のどん底で、のたうち回っていた頃、自己中心の我利我利妄者だったので、苦悩は 必ずしも 自己練磨の機会だと捉えることは、 なかなかできませんでした。

『菜根譚』の79条に、 耳目見聞は外賊がいぞくたり、 情欲意識は内賊たり、 只是主人翁、 惺々不昧にして、 中堂に独坐せば、 賊便家人とならん。 ーーーーーーーーーーーーーーーー ・耳目見聞―――耳で聞き目で見る。これは耳目の欲。 ・情欲――― 情愛の欲をいう。または種々の欲望。 ・意識―――我意。私欲。 ・主人翁―――主人公。 ・惺々不昧―――精神がはっきりしていて、邪悪・邪心にくらまされないこと。 ・家人―――使用人。 ―――とありますが、これは2)自己の主人公 の「瑞厳主人公」と 同義であります。 私たちの心を乱す賊は 内と外にいます。 耳で聞き、目で見て、これが欲しい と思う欲望があります。 そういう欲望は 目や耳を通じて 外部より入ってくる賊です。 これを「外賊」といい、仏法では「外魔」という。ところが、 人間の情欲、欲望、あるいは 意識作用、精神作用のようなものは、 心の中におる賊です。 これを「内賊」といい、仏法では「内魔」という。 つまり、外界の刺激で生ずる欲望は 「外賊」(外魔)、 自分自身の中から生まれてくる欲望は 「内賊」であります。

自己反省の方法は 人それぞれだと思いますが、 私の場合は、 坐禅―――正身端坐―― まず姿勢を調えて、 まっ直ぐに腰を据えて 端正に坐る。 そして、 自己の心の内に向かって 静かに考え、 心を整理する。 さらに自問自答して 自分で自分の行動を 批判して見ることにしています。 心を整え 内に向かって 真実の自己を 見詰めると、 心の奥底に潜ひそめる 「仏性の光」が 見えてきて、 だんだん 自分の過失が 見出されてきます。 そして「ああ悪かった」と 気が付きます。 この気付くということは、 天地万物と 自己とが 一貫する 神泉のほとばしりで、 これによって 罪業を 洗い浄めると、 明々皓々(めいめいこうこう)たる 本もとの光が現れてきます。

仏法は 「心の教え」であります。 では 「心とは何か?」―― およそ世の中で 何がわからぬか といえば、 人間の心ほど わからぬものはない と思う。 というのは、 心は 有るとか 無いとか、 ハッキリ言う事の出来ないものだからです。