第六話(下)正しい坐禅の仕方 (No.33)


坐禅は瞑想ではない(下)


禅は禅であり、

坐禅は坐禅である。

瞑想ではない。 

 

坐禅は、

けっして

難行苦行ではない。 

特別な人々だけのものでもない。

第六話 坐禅は瞑想ではない(上)より

 

 


正しい坐禅の仕方



1.坐禅の前の準備


(1) 道場の選び方、整え方

 

道場とは、

 

菩提道場の略。

 

本来は、

釈尊が成道した場所、

 

菩提樹下の

金剛座をいう。

 

ここでは、

坐禅修行の場所の意。

 

 

*道場には、

 

 この世に生まれ出た私たちが 

 人生の真の意味を追求する為の

 

 大切な場所 

 

 という意味合いがある。

釈尊が成道を得た菩提樹 金剛座

釈尊はこの場所にクシャ草を敷いて坐し、悟りをひらいたといわれている。

(ブッダガヤ―・インド)


道場の選定

 

坐禅にふさわしい環境とは―――

閑静で清浄なる場所。

 

たとえば

「山河大地、森羅万象、(ことごと)く是れ自己なり」

 

の境地で坐れる場所に

こしたことはないが、

 

現代人の生活環境、

とくに都市生活では、

 

そのような理想的な場所は 

手近に見出しにくいと思う。

 


 

その場合には、

 

朝晩の比較的に静かな時刻に、

 

自室を整理清掃し、

 

線香を焚いて

 

坐るのがよい。

 

その時、

 

部屋は、

夜といえども暗きに過ぎず、

 

昼はまた明る過ぎないように

 

光線を調節する。

 

 

また、

冬は部屋をなるべく暖かにし、

 

夏は涼しくするのがよい。

 


2) 身体の整え方

 

イ 睡眠不足の時や、

  極度に疲労している時は

  避ける方がよい。

 

ロ 食べ過ぎた時、

  極度に空腹の時は

  避ける方がよい。

 

ハ 食物に注意して

  不消化物などは

  なるべく避け、

  興奮する飲食物も

  とらぬ方がよい。

 

ニ 食物の分量は

  ひかえ目にして

  腹七分の程度とし、

  美食に沈溺(ちんでき)せぬこと。

 

ホ 食後は、

  およそ一時間程は休憩して

  坐禅するのがよい。

 

ヘ 坐禅に入る前には、

 

  目を洗い、

足を洗って、

身心を爽快にし、

 

気力と体力を充実した状態にして

坐るのがよい。

 

 


(3) 衣服の整え方

 

イ 衣服については

  特に規制することもいらないが、

 

  ゆったりしたものでないと

  坐りにくい。

 

 

ロ 衣服はきちんと着て、

  帯、またはバンドは

なるべくゆるくするのがよい。

 

背広を着て、

ネクタイをしめて、

堅苦しく坐るのはよくない。

 

ズボンはゆったりした

替ズボンを用意するのが望ましい。

 

厚着、薄着(うすぎ)は避けること。

 

 

  ハ 坐禅中は、

 

    足袋、くつ下、

時計、ネックレスなどはずし、

 

眼鏡も特別な方以外は、 

はずした方がよい。

 

 


4) 坐所の整え方

 

イ 坐る所には、

  うやまいつつしむ

  厳粛な態度で

  臨まねばならぬ。

 

 

ロ 臨済宗は、

  坐る所に

  「単ぶとん」という

  蒲団を敷き、

 

  お尻の方を少し厚くして

  坐りやすいようにする。

  

  普通の座布団の場合なら

  二枚使い、

  一枚は二つに折って

  お尻の下に敷くとよい。

 

  曹洞宗では、

  ()(にく)(坐禅のときに敷く敷物)を敷いて、

  その上に

さらに円い蒲団を置く。

 

 

  ハ 壁や椅子、

    その他のものに

よりかかることは

    禁物である。

 

 

  ニ 姿勢の正邪は

    お尻の下に敷く蒲団の高さによって

    左右されることが多い。

 

    あまり低すぎても

    姿勢が整わないし、

 

    高すぎては

ずり落ちてしまうので、

 

この高さを調整して坐るのが 

コツである。

 

 


2.坐禅の実修


 

道場に入った時には、

 

先ず正面の仏像

*自室の場合、仏像がなければ、掛け軸か仏像の写真でもよい

 

に対し合掌して礼し、

 

自分の席に歩を進めて、

 

さらに

 

この席にも

合掌して

座に就く。

 

 

・坐る時、

 

臨済宗では

対坐といって、

 

互いに顔が見えるように

向かい合って坐る。

 

曹洞宗では、

壁面といって

 

壁に向かって坐る。

 

 

 

私は、

下座行(路上坐禅)中、

対坐であったが、

 

自分の経験上、

初心者や自室で一人坐る時は

面壁がよいと思う。

 

これは壁という字にとらわれなくてよい。

 

その心意とするところは、

 

遠方の見える所で

坐ると

心が乱れやすいからである。

 

だから

仏壇の前や

床の前などで坐るのがよい。

 

もしそれがなければ

適当な壁や

襖・障子などの前がよい。

 

いずれにしても

壁や障子に

あまり接近せずに、

 

およそ2尺(60㎝)、3尺(90㎝)

離れて坐るのがよい。

 

 

・面壁坐は

向上門中の坐法であって、

 

果上(さとりの境地)の

仏祖釈尊の坐

対坐である。

 

ただし、

対坐、面壁に 

こだわることはない。

 

 

 

 

対坐


(1) からだを調える(調身)

 

足の組み方

 

坐禅をするには、

正しい坐り方を

身につけることが肝心です。

 

結跏趺坐(けっかふざ)―――

 

身体の坐りがよい、

 

一番安定する形は、

正四面の三角錐体(すいたい)

 

つまり

ピラミッド型に坐るのがよい。

 

それには、

先ず座布団の上に坐った

 

両膝および尾骶(びてい)(こつ)から

頭のてっぺんに

 

上昇する稜線を引くと、

そういう形になる。

 

 

結跏趺坐とよぶ

坐形がそれで、

多くの仏像に見られる坐り方である。

 

 

結跏は

足を組むことであり、

 

趺は

足の裏である。

 

つまり

足の裏を上えに見せて

両足を組んで坐ることが、

結跏趺坐である。

 

 

先ず、

普通の胡座(あぐら)の状態から、

右の足を左の股の上に、

かかと(・・・)が下腹につくくらいにのせる。

 

次に

左足を右の股のつけねにもってくる。

 

微動だにもしない

安定した足の組み方である。 

 

 

結跏趺坐の足の組み方(金剛座)

金剛座の足の組み方 (正面より)



半跏趺坐はんかふざ―――

 

結跏趺坐に慣れない人は、

 

筋や骨が痛んで

なかなか堪えられないので、

 

そういう人は

半跏趺坐という

足を半分組むだけでもよい。

 

 

右の足を左の股の上にのせる坐り方を

吉祥坐きちしょうざといい、

 

左の足を右の股にのせるだけのものを

降魔坐ごうまざと呼んでいる。

 

 

結跏趺坐を金剛座といい、

 

吉祥坐を仏の坐法、

降魔坐を修行人の坐法

というが、

 

そんなことにはこだわらず

 

長時間坐って

疲れたら

左右を交互に組み替えるのがよい。

 

たとえ結跏趺坐が出来る人でも、

 

長時間坐ることは

容易なことではないので、

 

無理をせず

半跏趺坐で坐ればよい。

 

半跏趺坐 : 吉祥坐

半跏趺坐 : 降魔坐



婦人は

普通の日本人の坐り方で

正座し、

膝を少しひろげて坐ってもよい。

 

 

なお、

日本坐でも

永く坐っていると

足が痛くなってくるので、

 

この場合は、

座布団を二つ折りにした

尻当てを

足と足の間にはさんで、

 

馬乗りになったように

尻を置くもよい。



お体の障害などで

足が組めない方

 

上記のことを意識して 

調身されるよう

工夫願います。

  

   

 

 

 

 

 

 

座布団を二つ折りにした尻当てを、

足と足の間に挟む



 

手の組み方

 

足が組めたら、

次に手を組む。

 

両肘を身体から離して、

 

先ず

右の手を

(たなごころ)を上にして

左の足の上に置く。

 

左の手も掌を上にして

右の(たなごころ)の上に重ねる。

 

この時、

両方より大きな物を

膝の上に

抱え込む様な気持になるとよい。

 

 

両方の親指の頭は

向かい合って

軽くつき、

身体に近く引き寄せる。

 

 

両親指の頭は

ヘソ(・・)に対するようになる。

 

このような手の組み方を

法界(ほつかい)定印(じょういん)

と呼んでいる。

 

または、

右手を内側に

左手を外側にして、

 

軽く握りしめてもよい。

 

 

法界定印

右手を内側、左手を外側に軽く握る



 

背骨を伸ばす

 

足が組めて

手の置き場所ができ

坐が定まったら、

 

身体を前後左右に

5、6回

始めは大きく、

 

しだに小さく

揺り動かす。

 

 

その時、

動かない一点が(かなめ)である。

 

 

この

確り定めて

腰をきめる。

 

 

腰という字は、

(にく)(づき)と書いてあるが、

 

腰は

上半身と下半身をつなぐ

肉体の要である。

 

 

よく

「腰を据えろ」といわれるが、

 

坐禅ばかりでなく、

 

運動も、

仕事も、

 

そして日々の生活も

腰が据わっていることが

肝心(かんじん)(かなめ)である。

 

このように

腰を決めたら、

 

上体を45度くらいの角度で

前方に倒し、

 

お尻を

思い切り後ろに突き出す。

 

そして、

お尻の位置をそのままにして

上体だけを起こすと、

 

尾骶骨の少し上あたりが

前方に反り気味になる。

 

そこで、

確り腰に力を入れて、

 

両方の膝頭を

ヅンと下げて

蒲団を(おさ)え、

 

背骨をグンと真っ直ぐに伸ばすと、

 

自然に下腹、

つまり

ヘソ(・・)下三寸の処に

気が充実してくる。

 

 

下腹は

気海丹田

といって

健康の基礎がそこにある。

 

 

この気海丹田が、

気合の入る処で、

 

気力、元気すべて

ここから湧いてくる。

 

 

そして、

日常生活の活力は、

 

この気海丹田 

充実如何にかかっている。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

法母・石橋富久様

(ブリジストン・タイヤ創始者:石橋正二郎夫人)

昭和36217日(当時20歳)

法母・石橋富久様

(ブリジストン・タイヤ創始者:石橋正二郎夫人)

に連れられて、

 

臨済宗師家・松尾太年老師に入門した時、

 

松尾老師から

「青竹を脳天から肛門に真っ直ぐ貫いた感じで坐りなさい」

といわれた。

 

昔、八百屋などに

節を抜いた竹の上から

 

銅貨を落とすと、

底にチャリンと落ちる。

 

そんな銭筒があったそうだが、

ちょうど

そのように

 

頭のてっぺんから

銅貨を落としたら、

チャリンと尻の穴へ落ちるような 

気持ちで坐れと教えられました。

 

 


このように

確りと組まれた両足の恰好が

二等辺三角形になる。

 

その頂点から

90度の角度で

背骨を立てる。

 

そこで、

左のほうに傾いたり、

右のほうへ曲がったり、

 

前へかがんだり、

後へそり過ぎたり

しないようにする。

 

 

これが、

正身端坐

であり、

仏祖釈尊正伝の坐法である。

 

 

・坐禅は

正身端坐でなくてはならないが、

 

あまり気張りすぎて

緊張気味になると、

かえって窮屈になって

呼吸が迫って苦しくなる。

 

腰以外には、

どこにも力を入れず、

 

特に肩や胃部の力を抜いて

ゆったり構え、

 

耳と肩とが

垂直線上にあり、

 

鼻とヘソが

一線上にある

ようにするのがよいとされている。

 

 

それは

顎を引いて、

首筋を立てれば、

自然に耳と肩が垂直になるし、

 

腰骨を立てて

下腹を前に押し出せば、

 

これまた

鼻とヘソとが垂直になる。

 

 

・口は固く引きしめて、

いわゆる

一文字に結んでおるのがよい。

 

 

歯は浮かさず、

舌は上の顎にかけ、

口の中に空気をこもらせてはいけない。

 

 

これは、

こうしたことを意識しないでも

 

気合を入れて

一所懸命に坐っておれば、 

自然にそうなる。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

いのちの森勧進・25日間下座行
平成20年10月3日~27日

名古屋 栄

目は(つぶ)らず半眼にして

 

坐禅は瞑想ではないから、

 

目を瞑らず

半眼にしているのが

原則である。

 

 

 

一般的に、

特に最近の瞑想ブームで、

坐禅と瞑想が混同されているが、

 

坐禅の場合は

瞑想もまた雑念の一つになる。

 

 

坐禅は、

目を開けて

現実を切り離さずに、

 

それでいて

無念無想の

禅定を味わう。

 

 

目を瞑ってしまうと、

眠くなったり、

 

瞑想したりと

現実から切り離された状態

つくり出してしまうので、

 

耳目を塞がず

現実の中に身を置いておくのである。

 

半眼だと

視覚的な刺激が入ってきても、

 

心を呼吸の処に置けば、

無心に

目を開いていることができる。

 

 

このことは、 

「調息」の項で説明する。

 

 


坐禅では

 

顎を引き締め、

 

顔をうつ向けず、

 

また上を向き過ぎず、

 

眼を張らず、

 

細めず

 

通常に開いて

 

前方三尺(90㎝)ばかりの処に

 

自然に落とす状態が望ましいとされている。

 

 

よく目は半眼にして

といわれるのは、

そういうことである。

 

 

半眼

下界の刺激を和らげる

効果があると同時に、

 

現実を遮断しない

という意味において

 

坐禅を行うには

非常に有効な作法である。

 

 

 

しかし、

目線を落とすということは、

三尺前を凝視(ぎょうし)することではない。

 

 

目は開いておくだけで、

意識をそこに集中してはいけない。

 

 

要するに

目線を自然に落とすことであって、

見詰めてはならないのである。

 

 

 

・一般的には、

目を瞑って坐ると

 

外界の物が目に入らないから、

いかにも

心が落ち着くように考えられるが、

そうではない。

 

昨今の瞑想ブームの影響か、

 

目を瞑って瞑想するほうが

三昧に入りやすい

と説く禅寺の僧侶もいるが、

 

目を瞑っての坐禅は

禁物とされている。

 

 


 

では、いったい、

どうして

目を開けていなければならないのか?

 

瞑想の

「瞑」を漢和辞典で引くと、

 

   目をつぶる。

   ねむる。

   目がくらむ―――

とあるように、

 

  目を瞑っていると、

  どうしても眠くなる。

 

  眠っていたのでは

坐禅修行にならない。

 

 

次は、

目を瞑っていると、

 

さまざまな妄想や雑念が

目を開けている時よりも、

はるかに激しく出てくる。

 

 

坐禅中、

大なり小なり、

妄想とか雑念とかは出てくるが、

 

ただそれを

妄想、雑念だと

はっきり自覚して

相手にならず切り捨てて行けば、

 

煙のごとく霧のごとく

自然に消滅していくものである。

 

 

 

この点については、

 

次回『マインドフルネスは禅に似て禅に非ず』

 

の中でお話ししたいと思っています。

 

 


(2) 息(呼吸)を調える(調息)

 

坐禅の作法の中、

身体が調ったならば、

 

次に呼吸を調えなくてはならぬ。

 

呼吸は

 

肉体と精神の中にあって、

 

その仲介をするものであって、

 

身体が調ったら

呼吸を調えることが 

大切な条件である。

 


呼吸の方法

 

身体を前後左右に揺り動かして

坐が定まったら、

 

深呼吸を数回行う。

 

その方法は、

口を開いて

大気と下腹とが

直結するようなつもりで―――

 

のど(・・)や胸を使わずに、

下腹部を収縮した力で

胸底をカラッポにするつもりで

 

綿々として長く

吐いて吐きつくす。

 

およそ30秒ぐらいもかかって

腹中の邪気や濁気を吐き出す。

 

こうして吐きつくしたら

下腹の緊張をゆるめると

 

外部の大気の圧力によって

鼻から自然に空気が入ってくるから、

 

その入るにしたがって

胸、腹に満ちるまで

吸い込む。

 

吸い込み終わったら

ちょっと息を閉じ、

 

腰を張り出すようにして

吸った息を下腹に、

 

すくい上げるような気持で

軽く押し込む。

 

この時、

 

気張ったり、

 

力んで鳩尾(みぞおち)に力を入れ、

 

胸圧を加えることは

絶対に禁物。

 

鳩尾を柔かくへこ(・・)むようにして、

肛門を絞めるようにすることが

コツである。

 

そして、

苦しくなる直前に

前のように

徐々に吐き出す。

 

 

 

・こういう深呼吸を

4,5回ないし、

10回も繰り返すと、

 

坐る前の雰囲気から

完全に離脱できる上に、

 

気血の循環がよくなって

身体がホカホカとしてくる。

 

そればかりでなく、

心と身体の調整がとれて

 

入定 

おおいに助けてくれる効果がある。

 

 


 

深呼吸が終ったら、

口を閉じて

鼻から空気を出入させながら、

 

腹筋を用い、

腹圧を利用して

丹田息をする。

 

 

丹田息は、

下腹というよりは、

 

むしろ

尾骶骨の上の辺

力を入れて

 

腰骨をグッとつっ立てるように

前に押し出した状態で

 

肛門を引きしめ、

口を閉じ

 

鼻から腹筋、腹圧を利用して

静かに細く長く

呼吸するやり方である。

 

 

実際には

空気は肺にしか入らないが、

 

吸うときに鳩尾の辺をゆるめて

静かに吸うと

ヘソの下にまで入る感じがする。

 

 

吐くときも

下腹の力で

ヘソの下から呼気が出るように感じる。

 

 

出入ともに

下腹に

気を充実させるようにつとめる。

 

 

その時、

鳩尾に力が入らず、

 

その部分はヘコむようにし、

決して力んではいけない。

 

 

 

普通人の呼吸回数は

1分間におよそ18回だそうだが、

 

この丹田息で坐ると短い人で

1分間に56回、

 

息の長い人は

1分間に23回位になる。

 

 

 

初めは意識的にやらないと

うまくいかないが、

 

慣れるにしたがって

自然に無意識に行えるなってくる。

 

 


呼吸の

 

呼は「()く」、

 

吸は「()う」という字である。

 

つまり、

 

呼いて吸うから呼吸という。

 

 

 

坐禅の時の呼吸は、

 

呼く息を長くにして、

 

吸う息を短くに、

 

「呼主吸従」

 

というやり方がよいとされている。

 

 

この場合、

ノドの辺で呼吸するのではなく、

 

下腹まで呼吸の根をおろすようにして

 

深い呼吸をするように

心掛けることが大切である。

 

 


行脚の時の歩行も

 

坐禅と同じ要領で、

 

顎を引いて、

 

腰骨を立てて、

 

一歩二歩で吸い、

 

八歩でゆっくりと呼く、

 

これは

全国行脚をして

身体で摑んだ

歩き方であります。

 

 

あごひいて 腰骨たてて 黙々と

 

ただ黙々と 黙々と歩く

 

 


(3)心を調える(調心)


からだを調え、

呼吸を調えたら、

 

次は

「心を調える」

 

つまり

精神を集中統一することで、

 

要するに

三昧(さんまい)に入ることである。

 

*三昧 : 雑念を離れて心が一つの対象に集中し、

      散乱しない状態をいう

 

 

 

心を調える方法は、

(すう)(そく)(かん)(ずい)(そく)(かん)公案(こうあん)三昧と

 

ただひたすら黙々と坐る 

只管(しかん)打坐(たざ)」がある。

 

 

 


先ず、

坐禅の最初は

 

「数息観」という

心の集中法が用いられる。

 

 

これは

呼吸を数えることで、

意識を集中させる方法である。

 

 

文字どうり

息を数えるのであるが、

心で数えるのである。

 

 

 

(ひと)つ (ふた)つ (みっ)つと数えて

(とう)までを一所懸命に数える。

 

そして十まで来たら、

また、

一つ 二つと初めから十まで、

 

これを繰り返していると、

散乱していた心が

自然に集中統一され

数息三昧になる。

 

 

・呼吸を数える場合、

 

  吸う息一つ、吐く息一つと数える。

 

  吸気を主として数える。

 

  呼気を主として数える。

 

の三つの方法があるが、

 

私の体験からいって

呼く息を主として数えるのが、

 

三昧に入るには

一番よいと思う。

 

 

「ひとー」

 

という念の力で、

長く息を引っぱっていくような気持ちで呼く、

 

そして

身体の力も

心もゆるめるような気持ちで

 

「つー」

 

と短急に吸う。

 

 

 

呼く息は

気海丹田

吐きかけるように

 

そして

数えるのも

気海丹田で数えるという

気持ちでやることが大切である。

 

 

この時、

自然に息が心に従い、

 

また

心が息に乗って

 

融然と 

心と息が融け合って一つになる。

 

 


 

歩々是道場―――

 

行脚で歩く場合も、

要領は坐禅と同じで、

 

顎を引いて

腰骨を立てて、

 

一歩、二歩で吸い、

ゆっくりと八歩で呼く―――

 

この方法が

一番大地を確りと踏みしめ、

つかれずに歩けます。

 

 

・坐禅の時は、

第六話(上)で話したとおり、

 

目は開けているから、

いろいろなものが見える。

 

耳も塞いでいないので、

種々の音が聞こえる。

 

心中にも

種々思い出されることが

湧き起ってくる。

 

人の心というものは、

 

あたかもメタンガスが

フッフッと湧き出る

泥沼のようなものであるから、

 

過去の経験知識

一切がたまって、

 

それが

 

発酵して

 

妄想となり

 

執着となって

 

発散してくる。

 

 

そこで、

妄想や雑念が起こったならば、

 

相手にならず、切り捨てて、

 

ただひたすらに数えることに

意識を集中すればよい。

 

 

妄想とか、

雑念というものは、

 

幻花(まぼろしの花)のごときもので、

 

実在ではないから、

相手にならず、

 

切り捨てて行けば、

 

煙が消えていくように

自然に消滅するものである。

 

 


次は、

数息観を一歩進めて

随息観をする。

 

これは

出入の呼吸を

 

心の眼

明らかに見つめて、

 

出る息を出ると

明らかに知るのみ、

 

入る息を入ると

明らかに知るのみ、

 

出入の息と心と

 

一体無二に成り切ってるのを

 

随息観というのである。

 

 


公案三昧―――

公案の工夫については、

 

師家について

実際に禅の修行をすべきものですから、

 

ここでは割愛します。

 


只管打坐―――

 

只管は、

ただひたすらに、

 

一筋に、

 

一途(いちず)に、の意。

 

 

打坐の打は

意味を強めるための助字、

 

坐るに力を入れただけで、

 

確り坐れということ。

 

ですから、

只管打坐は、

 

余念をまじえず、

 

ただひたすらに

坐禅を行ずることをいう。

 

 

繁華街の雑踏の中で

坐るようになってからは、

 

いつのまにか、

その時その場に

成り切って、

 

黙々と、

ただ黙々と、

黙々と

坐っていました。

 

道端の坐禅には、

理論理屈はいらぬ、

 

ただひたすらに

黙々と坐るのみ。

 

 

(にん)(ぬん)無作(むさ)―――

 

寒い時は寒い、

 

暑い時は暑い。

 

 

任せきった心境に立って、

一切を素直に正受し、

 

その時、その場に成り切って、

 

ただひたすら

黙々と坐る。

 

 

  

 

 

 

寒中の京都に坐り一句

(平成2023日~23日)

 

藍染めの ころもにかかる 雪無心


 

おわりに

以上『坐禅儀』を参考にして、

 

調身・調息・調心と、

三つに分けて説明しましたが、

 

この三つは、

元来分けて考えるものではありません。

 

 

本当は

呼吸の働きに媒介されて、

 

心と身とが

渾然(こんぜん)一如になるのが

坐禅であります。

 

 

 

身・息・心の三つが、

どの一つを取り上げても、

 

他の二つがついてきて

調和するものです。

 

坐相(坐禅している姿)が

凛然(りんぜん)と正されば、

 

心も息も自ずから

正しくなるし、

 

心が願心で満たされれば、

 

姿勢

つまり

坐相も呼吸も

期せずして正しくなります。

 

 

このようにして、

身・息・心

安定不動の状態で

 

一如に調和されることが、

坐禅の要訣であります。

 

 

肝要なのは、

毎日5分でも、

10分でも

坐ることです。

 

ただ、ひたすら

毎日坐りつづけることです。

 

この毎日つづけるということが

肝心要であります。

 

 


平成29年7月8日

            自然宗佛國寺 開山  佛國寺 黙雷


 

自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもとに
連載でお伝えしています