第九話 マインドフルネスは禅に似て禅にあらず(下)


マインドフルネスは 禅に似て 禅に非ず (下)



マインドフルネスは禅なのか?


マインドフルネスは 禅に似て 禅に(あら)ず(上)では、

 

 「禅とはなにか」

 (瞑想は禅ではない)。

 

マインドフルネスは 禅に似て 禅に(あら)ず(中)では、

 かつての宗王国(植民地支配者)
フランスに亡命した


マインドフルネスの

 提唱者・ティク・ナット・ハン師の生き方、

 それはそれとして――――。

 

 ベトナム民族の

 自由独立のために

 

 侵略者である

 フランス、アメリカと戦った

 ホー・チ・ミン

 

大英帝国(イギリス)の植民地支配からの

インド独立自存のために

 

「非暴力」という

 もっとも厳しく勇気のいる戦いを

 実践躬行した

 

 ガンディー

 

 「人間としての価値ある生き方」

 

をお話ししました。

 

 

つづいて、
「マインドフルネスは禅に似て禅に非ず」(下)に

に入りますが、

 

何故、

上中下の3回に渡って

書くことになったかと申しますと、

 

この後の

「2.大地に触れる瞑想」で

お話しする、

 

ティク・ナット・ハン師に傾倒する

女性たちとの出会いが

動機となっています。

 

 

・マインドフルネスは

 

禅を標榜(ひょうぼう)していますが、

 

仏祖正伝の禅仏法とは

 

全く異質のもので

 

禅ではありません。

 

 

ここが

肝心要なところなので

 

繰り返し申し上げます。

 

 


1.マインドフルネスは禅ではない


マインドフルネス提唱者、

テック・ナット・ハン師は

 

『禅への道』、『禅的生活のすすめ』等々の

本を書かれていますが、

 

その本のなかの一冊

『仏の教、ビーイング・ピース』の

「訳語対照表」に

 

・禅(ZEN)を   

meditation(瞑想)

 

・坐禅(ZAZEN)を 

sitting maditaion(坐ってする瞑想)

 

(きん)(ひん)を      

walking meditation(歩いてする瞑想)

 

―――とある。

 

 

しかし、第七話(上)に書いたように、

 

 

禅は 禅であって、

 

瞑想ではない。

 

 

坐禅は 坐禅であって、

 

坐ってする瞑想ではない。

 

 

経行は 経行であって、

 

歩いてする瞑想ではない。

 

経行=坐禅中、足のつかれを休めたり、

   ねむけを払ったりするために、 

   堂中をゆっくり歩くこと)

 

 

岩山に根を張った「いのちの森・水源涵養広葉樹」


土台のない高楼(たかどの)

「禅とは何か」

 

この根本を確りと摑まず、

 

なおざりにして

詩的な美しい言葉で

着飾っても

 

それは

土台のない高楼であり、

砂上の楼閣である。

 

インドの原始仏典『(ひゃく)()(きょう)』に

「土台のない高楼(たかどの)

という話がある。

 

金持ちではあるが

愚かな人がいた。

 

他人の家の3階づくりの

高層が高くそびえて、

美しいのを見て

うらやましく思い、

 

自分も金持ちなのだから、

高層の家を造ろうと思った。

 

大工を呼んで

建築を言いつけた。

 

大工は承知して、

まず基礎を作り、

 

2階を組み、

それから

3階に進もうとした。

 

主人はこれを見て、

もどかしそうに叫んだ。

 

「私の求めるのは、

 土台ではない。

 

 1階でもない。

2階でもない。

 

3階の高楼(たかどの)だけだ。

早くそれを作れ」と。

 

 

愚かな者は、

努め励むことを知らないで、

 

ただ

良い結果だけを求める。

 

しかし、

土台のない3階は

ありえないように、

 

努め励むことなくして、 

良い結果を得られるはずがない。

 

 


(ひゃく)()(きょう)は、

インド僧

サンガセーナ(Sanghasena)著。

 

彼の弟子グナヴリッディ(Gunavrddhi

492年に漢訳。

 

百句()()経、百句譬喩集経、

百譬経、4巻・98話よりなる 

戯笑の譬え話の収録。

 

 


物事には必ず

土台(基礎)になるものがある。

 

それを抜きにして

大成は望めない。

 

当たり前のことですが、

これが意外にも

忘れられがちです。

 

この説話では、

土台、1階、2階を抜きにして、

 

いきなり

3階を造れと要求する

愚かな金持ちの話を取り上げています。

 

 

日々の仕事にしても、

 

日々の勉学にしても、

 

根本となる基礎

 

何よりも重要です。

 

 

禅修行

同じです。

 

 

まずは、

基礎を確りと固め、

 

そこから

先の階段を

一段一段と

順を追って進んで行く、

 

それは努力の過程であり、

また

辛苦の過程でもある。

 

粒粒辛苦というが、

こつこつと

地道な努力の積み重ね

なければ、

 

物事を達成することは

できない。

 

 

禅修行も、

これと同様で、

 

「禅とは何か?」

 

の根本を

なおざりにして

 

だ、

 

坐禅だと

 

いっても、

 

それは

「土台のない高楼」の

譬え話と、

なんらかわりません。

 

 

第七話「マインドフルネスは禅に似て禅に非ず(上)」

で申し述べたように、

 

 瞑想 ではない、

 

ここが禅修行

 

肝心要の土台であります。

 

 

このの根本を誤り

 

坐禅修行の出発点

間違えると、

 

土台のない高楼 

ということになります。

 

 


 

 曹洞宗の大徳

弟子丸 泰仙 老師

 

フランスを拠点に「禅」をひろめた 

パリ市内に「佛国禅寺」

ブロワ市近郊に「禅道尼苑」を建立し、

禅道場63ヶ所を開設。 

弟子34万人を数えた。

 

<フランス語になった禅>

禅宗はフランス人にもっとも知られた日本の宗教である。

Zen禅」という言葉は、「静かな」「落ち着いた」という意味で、フランス語として使われている。


坐禅は      

by the head push the heaven  頭で天を押す

by the knees push the ground,the earth  両膝で大地を押す

「ドモナーム・アトナーム」 以心伝心

「ノンプロフィット」  無所有 

 以上の四項目が講演の趣旨。

 

 


ところが、

マインドフルネスの提唱者

ティク・ナット・ハン師は、

 

を 瞑想

坐禅を 坐ってする瞑想

経行を 歩いてする瞑想

 

といわれていますが、

 

これは

とは

程遠いもので

 

到底 

とはいえません。

 

 


2.大地に触れる瞑想?


ティク・ナット・ハン師に傾倒し、

「サンガ」

(僧伽=仏道修行をする人たちの集団)

    で瞑想修行をしている
Aさんから、

 

サンガで修行している女性たちと

自然の森の中で

「大地に触れる瞑想」

を体験したいので、

 

「いのちの森」をお借りできますか―――

 

との問合せをいただきました。

 

ティク・ナット・ハン師の

禅(?)に関する本を読んで、

 

私の頭の中に、

これが禅なのか―――

 

という

「はてな?」マークが

点灯していましたので、

 

これは

彼らを知るのによい機会をいただいた

と思い

2日間お接待させていただきました。

 

 

・大地に触れる瞑想修行―――

 

彼女たちは森の中で

大地に坐り

瞑想に入る。

 

ところが、

彼女たちが坐っている姿勢をみると、

 

ヨーガの坐法や

背中が曲がった姿勢、

背中が反りすぎた姿勢で、

正しい坐禅の姿勢ではない。

釈尊成道(じょうどう)

正因は、

坐禅に在り、

 

坐禅は

仏法の基本です。

 

 

坐禅の基本姿勢は、

正身端坐にあり、

 

まずは

姿勢を正しく調えて、

 

真っ直ぐに

腰を据えて

端正に坐る。

① 成道:さとりを開くこと。

② 正因:さとりの直接の原因

 

(坐禅の基本姿勢は、

第六話「正しい坐禅の仕方」ご一読下さい)

 

Aさんが

絵にかいたような抽象的

美しい詩文を朗読しはじめると、

 

さまざまなポーズで

瞑想している女性たちが

微笑(ほほえ)もうと努力しているのがわかる。

 

「詩人の心は

恍惚(こうこつ)の境に()け」

 

という国木田独歩の言葉があるが、

 

しばらくすると、

うっとりとした表情に変化し、

 

ティク・ナット・ハン師の

詩の世界に

だんだん没入して

恍惚の境にとけこんで行く―――

 

なかには、

身体をゆったりと揺り動かし、

何か夢境に遊んでいるようだ。

 

朗読が終り、

鐘が鳴ると、

瞑想が解かれて、

 

彼女たちは、

それぞれのポーズで

大地に触れる。

 

瞑想後

Bさんが

 

「イメージが湧きました。

 

 この森のあそこに、

 建物を建て

 私たちのサンガつくりましょう」

 

瞑想中のイメージを語る―――

 

 

瞑想者たちから

拍手がおこり

 

佛國寺の「いのちの森」

 

マインドフルネスの

「瞑想の森」(サンガ)をつくる‐‐‐‐‐て?

 

この頭の不思議な構造

 

「こりゃ、

 ひとつ間違うと

 頭がおかしくなるぞ」、

 

「正師が

 かたわらについて

 指導しないと、

 気が狂う危険があるわい」

 

と思った。

 


そういえば

「同じような思いをしたことがあったな~」と、

思い起こされた。 

 

その体験とは、


古神道の神社での経験

全国行脚中、

四国霊場八十八ヶ所の遍路宿で、

紀州の神社の老宮司と

相部屋になった。

 

この縁で

紀州路を行脚している時、

 

老宮司宅にしばらく逗留し、

古神道について

お話をおききしました。

 

ある日、

老宮司から禅寺の住職を紹介をされた後

 

つづいて

道場に案内されると、

 

先程のご住職が、

巫女(みこ)さんと一間半(3m)ほど

はなれたところに対座するかたちで

坐禅を組んでおられた。

 

私が道場に入り、

着座すると、

 

部屋の電灯の明かりが

薄暗くなる。

 

老宮司が

(しゃく)で手のひらををポンと打つと、

 

巫女(みこ)さんが、

それは、それは、美しい声で

大和歌(やまとうた)」を朗詠する。

 

そのしらべは、

時には小鳥のさえずりのように、

 

時には谷川のせせらぎが歌うように、

 

時には春風のようにゆったりとうたう―――

 

 

先程のご住職はと見ると

いつしか目を瞑り

坐相はくずれている。

 

20分ほどたっただろうか、

 

ゆっくりと、

ご住職が立ち上がり

 

野に舞う蝶々のように

舞いはじめる。

 

巫女さんの歌が

荒れ狂うようにはげしいリズムになると、

 

突然、

ご住職の形相が険しくなり、

 

「エイ」、

「ヤァー」

と奇声を発し、

 

何かと格闘しているようにみえた。

 

 

これは危ないぞ

と私が思った途端―――

 

老宮司が

笏をポンと鳴らすと

巫女さんの歌は止み、

 

ご住職はへなへなと

へたり込み

忘我状態であった―――

 

これを見て

 

人を狂わす

危険な行法

だとの印象を得た。

 

 

そのあと、

正気を取り戻したご住職が

 

寺の裏山にある

「神代の城跡」だという所に

案内して下さった。

 

説明によると、

熊野に上陸された

神武天皇が

築かれた城の跡だと‐‐‐‐‐‐‐‐。

 

だが、

どう見たって

山の斜面を切り開いて

階段状に石垣を組んだ、

段々畑の跡である。

 

彼の頭の中には、

ひとつの

イメージが描かれているようで、

 

現実と夢想(妄想)が

ゴチャマゼになり、

少々頭が狂いはじめているように思えた。

 

そして、

先ほど目の前で展開された

神道の神憑り的行法が、

 

オカルトの温床に 

なっているように思えてきました。

 

 


マインドフルネスの女性たちの
「大地に触れる瞑想」
を見て、

 

この時に感じたものと

同質の印象

感じざるを得ません。

 

話しを

マインドフルネスの女性たちに

 

戻しましょう。


3.瞑想の世界に逃げ込む


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佛國寺「いのちの森」

彼女たちの話を聞いていると、

 

乳癌の治療中の人、

痴呆症の親の面倒を見ている人、

離婚して後悔している人、

夫婦仲の悪い人、

職場の同僚と上手(うま)くやっていけない人、

等々、

 

健康に関する不安

人間関係に関する不安

精神(心)に関する不安

抱えていることがわかった。

 

だが、

その不安

苦悩の原因は、

 

いったい何処にあるのか

深く究めようとせず、

 

ティク・ナット・ハン師が

「仏教の伝統的な瞑想修行」と言われるものに

逃げ込み、

 

彼の抽象的な美しい詩文の世界に

陶酔し、

 

しかもそれが、

 

であり、

 

坐禅だと

 

疑わず

本当だと思い込んでいる。

 

そして、

彼女たちは、

 

足下の苦悩を

苦悩と自覚せず、

 

「仏教の伝統的な瞑想修行」という、

 

一見、

崇高で神秘的な感じのする

詩的な言葉の(あや)

眩惑(げんわく)されて、

 

そこに安住し、

自分を誤魔化している―――

 

これでは、

いつまでたっても

問題は解決しない。

 

ますます 

人間苦が深まるばかりだ。

 

 


禅は、

安全地帯として

逃げ込むような

「自我」をもっていない。

 

したがって

禅には

われわれが陶酔するような

「自我」はないのである。  (鈴木大拙 居士)


夢境(煩悩妄想の世界)に遊ぶ(こわ)

釈尊は、

煩悩魔との戦いに打ち勝って、

 

ついに

35歳の128日(漢訳仏典の伝える月と日)、

 

東天に輝く暁の明星を

一見した瞬間、

 

「この上もなき最高の悟り」

無上(むじょう)(しょう)(とう)菩提(ぼだい)

 

に達せられた。

 

 

その時の感激に思わず

()なる(かな)、奇なる哉、  

 一切衆生皆悉く

如来の智慧徳相を具有す。

 

但、妄想執着を以ての故に証得せず」

と連呼し

讃嘆されたと伝えられています。

 

 

一切衆生悉く仏性有り、

 

煩悩覆が故に不知不見  (釈尊)


彼女たちに

少し時間をいただいて

 

仏法とは何か」、

 

禅とはなにか

 

の骨格を話した後、

 

坐禅の仕方の基本を説明―――

 

とくに

目を瞑ると、

 

さまざまな妄想が、

目をあけているときよりも、

 

はるかに

はげしく出てくる。

 

大なり小なり

妄想とか、

雑念とかは出てくるが、

 

それを

妄想、

雑念と

はっきり自覚して、

 

そうしたものに

いちいちとりあわず、

打ち捨てて

 

「ただ ひたすらに

黙々と 坐る」

 

これが坐禅だ。

 

そして、

私が全国行脚や

下座行(路上坐禅)で

体験した

 

「瞑想の危険=頭がおかしくなる」

 

(詳しくは、

 第五話「苦行の落とし穴、目を閉じる瞑想は危険」

 をご一読下さい)

 

 ―――を話した上で、

 

瞑想ではない」

 

―――というと。

 

 

Cさん(主婦)が、

うつろな目を向けて

 

「瞑想していると楽しいのです」、

 

「日常生活の(いや)なことも

 忘れることができるのです」

 

といわれる。

 

しかし、

とても健康体とは思われない

バサバサで艶のない髪や

血色がない顔の状態を見て、

 

「食事はちゃんととっていますか?」

 

質問すると、

 

「朝は体がだるくて起きられないので、

主人は自分で食事を作って出かけます。

 

私と主人は、

全く別な時間で生活し、

食事の内容も別々です。」

 

とのこと。

 

さらに、

脚が痛み出し

背中に皮膚アレルギーもあるとうったえる。

 

彼女の言動から、

すでに

精神的に異常な状態だと感じたので、

 

「これ以上、瞑想をつづけると

 頭がおかしくなるよ‐‐‐‐‐‐」

 

と申しますと、

 

「いいんです。

 今の私には効果があるんです」

 

といわれる。

 

 

私は、

もうこれ以上、

話しをしても無理だとわかりましたが、

 

これも御縁と思い

心を砕いて

お接待をさせていただきました。

 

*接待(せったい)

 本来は布施の一方法で、

 各地を行脚する修行僧に

 湯茶や食事を

施すことをいう。

 

禅寺では

一期一会の

出会いの大切さを

尊ぶところから

重要なつとめとされている。

 

・現在も四国霊場八十八ヶ所の

 遍路道では行われている。

 


4.マインドフルネスは 禅に(あら)


第六話第七話で述べましたが、

 

ここが肝心要なところなので、

 

繰り返し

 

繰り返し

 

申し上げます。

 

瞑想ではないのだ

(鈴木大拙 居士)

 

 

 

坐禅瞑想ではない

 

   (曹洞禅の大徳・沢木興道老師)


ところが昨今、

禅寺の僧侶の中にも、

 

ティク・ナット・ハン師を信奉し、

マインドフルネスを

看板にして

 

禅(?)活動している御坊(ごぼう)もおられるが、

 

()りにも禅寺の僧侶である以上は、

宗祖や祖師方

 

例えば、

 

道元禅師

 

身心脱落、脱落身心

 

 

 

至道無難禅師

 

いきながら死人(しびと)となりて

なり果てて、

思いのままにするわざぞよき

 

の境地を 体究体得し、

 

とは何か」

 

を全身心で摑んでいただきたい。

 


そうすれば、

ティク・ナット・ハン師の

 

meditation瞑想)が

禅ではない

 

・sitting meditation (坐ってする瞑想)

 坐禅ではない

 

waking meditation歩いてする瞑想)は

 (きん)(ひん)ではない

 

ということが 

おわかりいただけると思います。

 


マインドフルネスは禅に非ず

 

 

 

 

 

 

 

 

        鈴木大拙 居士

 

 

 

「禅とは何か?」

 

を詳しく知りたい方は、

 

鈴木大拙 居士

 

・『禅仏教入門』増原良彦訳

 (本書は

  Daisetz Teiaro Suzuki;

   An Introduction to Zen Buddhism,

 Kyoto,The Eastern Buddhist Society. 1934

 の翻訳である)

 

・『禅への道』坂本弘訳

 An Introduction to Zen Buddhism

 

―――をお読みいただければ

得るところが沢山あると思います。

 

 

そこで、

さらに一歩を進めて、

鈴木大拙 居士の禅学を

肥やしにすれど、

これに縛られず、

 

大拙居士の殻を

木端微塵に打ち砕き、

 

自分の根底にある

真実の自己(仏性)を発見し、

 

真実の自己に徹して、

 

日々の生活、

日々の生業の中で

自己を練磨開発し、

 

真個の独立人として

 

(にん)(ぬん)無作(むさ)

 

のはたらきをしていただければ

うれしく思います。

 

任運無作とは

任せ切った心境に立って、

 

 一切を素直に正受し、

 

 その時々に適応して、

 自然(じねん)のままに 

 無念無心に行為することをいう。

 

 



禅は、

自分で自分を教育する道。

 

坐禅は、

自分と自分の真剣勝負で 

自分に勝つ道 ――― 黙雷


戦場において

百万人に勝つよりも、

自分の心の中の

悪に勝つこそ

実に最上の勝利者である。

 

(『法句経』103)


平成29年9月2日

 

自然宗佛國寺 開山   佛國寺 黙雷


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の修行のもとに
連載でお伝えしています